アストラウル戦記

 打ち身のアザが残っただけで、ナヴィの怪我は軽かった。日がわずかに傾きかけた頃、ヤソンに強引に背負われて宿を出ると、ナヴィは先に外で荷物を馬に積んでいたガスクを見てうっすらと赤くなった。
「すみません。もう立てますから」
「本当に?」
「はい。ありがとうございます」
 ヤソンの背から降りると、ナヴィは繋いでいた馬に近づいた。その途端、隣の馬に乗っていたガスクに腕をつかまれ、あっという間もなく馬上に引き寄せられた。エウリルさま! 驚いたアサガが名を呼ぶと、ガスクはナヴィの足を馬に跨がらせながら振り向いて言った。
「腰痛めたらヤバいだろ。とりあえず次の宿が見つかるまで、一緒に乗っていく。一頭はアサガが引いてくれ」
「私が引きますよ。アサガは私より馬に慣れてないみたいですから」
 そう言って手綱を持つと、ヤソンは心配げにナヴィを見上げるアサガにいいでしょうと声をかけた。いいですけど…。そう言いながら自分の馬に乗るアサガを横目で見ると、緊張した声でナヴィは視線を揺らした。
「ガスク、あの」
「背中、まだ痛むんじゃないか。一人で乗るよりは少し楽だから。横向いた方がいいか」
「…ううん、大丈夫」
 そろそろとナヴィが鞍の前橋をつかむと、ガスクは鐙で馬の腹を蹴った。ゆっくりと馬が歩き出して、わずかに背中に痛みを感じてナヴィが顔をしかめると、ガスクは片方の手を手綱から離してナヴィの腹を抱えた。
「あの」
「嫌か」
 ガスクの呼吸まで耳元に降り掛かりそうで、ナヴィは身を固くして首を横に振った。さっき触れた唇の感触を思い出すと、カアッと顔が熱くなった。あれからプティまでのルートを調べていたアサガが部屋へ戻って、二人で話すことなく宿を出ることになってしまった。
 キス。
 この人と?
 考えるとパニックになりそうで、ナヴィは唇を引き結んで鞍をつかむ手に力を込めた。今は考えちゃ駄目だ。呪文のように頭の中で唱えていると、ふいにヤソンがガスクの馬の後をついていきながら尋ねた。
「ナヴィ、聞きたいことがあるんですけど」
「え?」
 チラリとガスクが振り向いてヤソンを見た。少し道が広がって、ヤソンはガスクの斜め後ろへ馬を進ませて言葉を続けた。
「どうして王宮を出たんです? 王立軍がナヴィを追っているということは、何かマズいことがあったんでしょう」
「ヤソン、今じゃなくてもいいだろ」
 ガスクが言うと、ヤソンはあなたらしくないなあと苦笑した。エウリルさまは無実の罪で追われているんです。先導していたアサガが声を張り上げて言った。ヤソンとガスクが一瞬視線を合わせると、ナヴィはいいよと言ってアサガの背中を見た。
「いいよ、僕が話す」
「でも」
「いいんだ」
 ナヴィの体を支えていたガスクの手が、わずかにピクリと動いた。その手に自分の左手を重ねると、ナヴィは記憶に焼きついたあの夜のことを少しずつ話し始めた。
 自分以外に入れないはずの自室で妃が、そして同時に母が殺されたこと。
 妃と母を殺したフリレーテが、死んだ方がマシだという目に合わせると言ったこと。
 王宮では狂った自分が母と妃を殺したとされて、投獄され、そのまま殺されかけたこと。
「アサガと、ユリアネという侍女が僕を王宮の外に逃がしてくれたけれど、その時にアサガは左目をフリレーテに…それに、ユリアネも大怪我を」
「じゃあ、そのフリレーテという男は、なぜか誰にも知られずに王子の部屋へ入れたということか」
 その男は誰なんだ。ヤソンが呟くと、ナヴィは首を横に振った。先を進んでいたアサガが貴族ですと答えた。
「アリアドネラという、貴族の中でもルクタス家と同じぐらい長い歴史を持つ家の子息です。でも、アリアドネラ伯爵はエウリルさまの婚儀の前に王宮で頓死されたと噂で聞いています。だから、それが本当ならフリレーテが今頃はアリアドネラを継いでいるのかも」
「待てよ。アリアドネラ家に子供はいなかったはずだぞ。娘と息子がいたが、流行病で次々と死んだとスラナング男爵から聞いたけど」
「養子だろ。ダッタンでは一瞬しか見えなかったが、相当美しい顔をしていた。美貌を見初められて妾代わりに養子に入るなんて、ダッタンじゃよくある話だった」
「でもそれは、家系図を金で買うような品位のないにわか貴族の話でしょ。アリアドネラ家は名門ですよ」
 ガスクの言葉に驚いてアサガが言うと、ヤソンは高位貴族に品位があるとは限らないけどねと付け加えて皮肉気に笑った。
「アリアドネラ伯爵には一度しかお会いしたことがないけど、とても優しい方だった。そういう人だとは思いたくないな…」
「また。エウリルさまは会った人みんな優しいって言うんだから。ちょっとは疑うことも覚えて下さいよ」
 怒ったようなアサガの声に、ガスクが確かになと加勢した。本当に優しい方だったんだよ。ナヴィが反論すると、ヤソンはまあまあと宥めるように言って話を続けた。
「そのフリレーテという男がまだダッタンにいるのか、それともアリアドネラ家へ戻ったのかは知らないが、またナヴィを襲ってくる可能性だってある訳だ。モテモテじゃないか、ナヴィ。王立軍兵に王宮衛兵、それにアリアドネラ家の当主まで」
「冗談言わないで下さい。僕には身に覚えのないことばっかりなんだ」
「お前、本当にフリレーテとかいう奴から恨みを買った覚えはないのか? ボーッとしてて忘れてるだけじゃないか?」
 ガスクが言うと、ナヴィは怒ったようにある訳ないだろと答えた。とにかく。話を続けて後ろにいるヤソンを振り返ると、ナヴィは眉を潜めた。
「王宮を出た後のことは、ガスクの母さんに助けられた後のことしか…ほとんど覚えてないんです。パンネルは僕にオルスナへ逃げろって言ってくれた。だから、ガスクも僕をオルスナまで連れていってくれる人を探すために、ダッタンへ戻ってきたんです」
「で、今に至ると」
 ふむと息をついて考え込んだヤソンを見ると、ナヴィも小さなため息を吐いた。
 少しだけ…楽に話せるようになった。それは時間のおかげなのかな。
「お前ってそう言えば、結婚したんだよな」
 ふいに頭の上から小さな声が降ってきて、驚いてナヴィが振り向くと、ガスクが唇を曲げて眉を潜めたまま前を真っ直ぐに見て言葉を続けた。
「俺、ダッタンで王子の婚儀の噂聞きながら、呑気にメシ食ってた」
「何で? 何が?」
 意味が分からずきょとんとして、ナヴィがガスクと同じように小声で尋ねると、ガスクはそれには答えずに軽く振り向いて、ヤソンから見えないことを確認してからナヴィの耳を軽く噛んだ。
「…いて!」
 言ってから、驚いてどうしたんですかと振り向いたアサガに、ナヴィは慌てて何でもないと答えた。不審気なアサガの視線がまた前に向き直ると、ナヴィはまだしかめ面をしているガスクを見上げて唇を尖らせた。
「何だよ。その頃は僕のことを知らないんだから、僕の噂を聞いても無関心で当たり前だろ」
「うるせえな」
「何だよ、もう」
 不機嫌なガスクを見てまた前を向くと、途端に片腕で腹をギュッと抱きしめられてナヴィは赤くなった。何考えてるんだ。考えながらガスクの指を握ると、ナヴィはその胸に自分の背を預けた。

(c)渡辺キリ