「お呼びと伺いましたが、いかがされましたか」
アントニアの部屋の前で見張りに立っていた衛兵が扉を開けると、アントニアは部屋の奥にある小さなテーブルで書物を開いていた。まだお眠りではなかったのか。ルイゼンが怪訝そうな表情でアントニアを見つめると、アントニアはルイゼンの声に反応して顔を上げた。
「君か。一度ベッドへ入ったんだが、何となく眠れなくて。君も忙しいだろうが少し話し相手になってくれるか」
「私は一向に構いませんが、私のような面白味のない武官では、アントニアさまがご退屈かと…侍従か小姓を呼びましょう」
ルイゼンが困惑したように答えると、アントニアはおかしそうに笑ってルイゼンを見上げた。
「話し上手や万事において気の利くような愉快な者ばかりが、世に求められる訳じゃないさ。君はペラペラと喋らないから、私は君を気に入ってるんだよ。君には意外かもしれないが」
「いえ、私は」
「ルイゼン、ワインを。君の分も入れてこちらへ持ってきてくれ」
そう言ってまた書物に視線を落としたアントニアの様子を伺うと、ルイゼンは部屋に入ってワゴンに置いてあったワインの栓を抜いた。アルゼリオ市長からの贈り物かな。アルゼリオの地のワインのラベルをチラッと見て、それからルイゼンはワインをグラスに注いだ。
「アントニアさま、何かフルーツをお切りしましょうか」
ルイゼンが尋ねると、アントニアはいらないと答えてテーブルに頬杖をついた。アントニアと二人で過ごすことは滅多になく、ルイゼンは何を話せばいいのか分からずにワインをアントニアのそばに置いて、向かい側に立った。
「かけたまえ」
アントニアが言うと、ルイゼンは失礼いたしますと答えてアントニアの向かいに腰掛けた。沈黙が続いて、アントニアが手をつけるまではワイングラスを持つこともできず、ルイゼンはアントニアが読む書物を眺めた。
オルスナの歴史書か。
オルスナにご興味がおありなのだろうか。ご自分の戴冠式も迫っている時に、余裕だな。考えながらルイゼンが黙っていると、アントニアは鼻眼鏡を外してルイゼンを真っすぐに見つめた。
「そのワインには、毒が入っている」
「!?」
驚いてルイゼンは思わずワイングラスを見た。蔦の模様が彫られたワイングラスも赤いワインも美しく、とてもそんな禍々しいものには見えなかった。
「これはどちらから贈られたものですか。すぐに調査を」
「慌てるな。アルゼリオ市長からの贈り物だが、どうやら途中ですりかえられたようだ。さっきこれを持ってきた青年が自白した。誰の仕業かも分かっている」
「アントニアさま」
「毒味をした小姓を一人失ったのは、惜しかったな」
そう言って自分のワイングラスを取り上げると、アントニアは立ち上がってそれを脇にあった花瓶の中へ注ぎ込んだ。
「毒を盛った所で、死ぬのは私ではなく私の周りにいる人間だ。それを分かっていないバカな貴族がまだまだいるということだ」
「貴族の仕業だと仰るのですか。一体誰がそのようなことを」
「ルイゼン、私が王となるのを反対している貴族を余す所なく処罰すれば、この国はどうなると思う?」
そう言って、アントニアはそばに控えていた侍従にワインを頼んだ。この方は、すでにアストリィの現状に気づいておられるのだろうか。軽く唾を飲み込むと、ルイゼンはまた椅子にゆったりと座ったアントニアに向かって口を開いた。
「アントニアさま、差し出がましいと分かっていますが、少しお話を…よろしいでしょうか」
「君が私に諫言とは珍しいな。いいだろう、申してみよ」
アントニアが書物を閉じて真っ直ぐにルイゼンを見つめると、ルイゼンは一瞬、言葉を選んでからアントニアを見つめ返した。
「あなたさまのご兄弟のことでございます」
ルイゼンの目は、迷うことなく強い意志を持っていた。ピクリと眉を寄せたアントニアに、ルイゼンは構わず話を続けた。
「私には兄弟がおりません。だから、ご兄弟が五人もおられるあなたさまたちが、私は幼い頃から羨ましくてなりませんでした。王宮へ出入りするようになって、ローレンさまが私を弟のように可愛がって下さったこと、エウリルさまが私を兄のように慕って下さったことが、私には何よりも嬉しかったのです」
黙ったまま相づちも打たずにルイゼンを眺めるアントニアに、ルイゼンは熱っぽく言葉を重ねた。
「アントニアさま、お願いでございます。この国のために、ローレンさまを再び王宮へ迎えていただきたいのです。ローレンさまが王宮をお出になられたのは、エウリルさまの一件が原因の一つだと伺っております。どうか、アントニアさまの権限をもって、エウリルさまの罪状を無に帰していただきたいのです」
「今のままでは、ハイヴェル卿の跡を君に任せる訳にはいかないな」
ルイゼンの言葉を遮ると、アントニアは侍従がワゴンに乗せて運んできたワインのグラスを手に取った。あそこにある瓶は処分を。グラスに口をつけて呟くと、アントニアは侍従が毒の入ったワインを持ち去る様子を眺めた。
「ローレンが自分で王宮へ戻りたいと泣きついてきたのなら、私も少しは考えよう。だが、君から何を言われた所でどうしようもあるまい。私の方からローレンやエウリルに戻ってくれと頭を下げるのか?」
「違います! 私はただ、このままこの国がバラバラになってしまうのを防ぎたいだけなのです!」
腰を上げてルイゼンが声を荒げると、部屋に控えていた数人の側近が動いた。それを軽く手を上げて遮り、アントニアは答えた。
「それを防ぐのは、それこそ君の役目ではないのか。ルイゼン」
あ…と体の力が抜けて椅子に座り込むと、ルイゼンはすぐに立ち上がり、真っ赤になって申し訳ございませんと頭を下げた。
やはり出過ぎた真似をした。
アントニアさまさえ折れてくれれば全ては上手くいくと思ったのが、間違いだった。
「先日、ダッタン市で民衆たちの暴動が起こり、王立軍による鎮圧が行われたと聞いたが」
ふいにアントニアに言われて、何のことか分からずにルイゼンはアントニアを見た。アントニアはテーブルに頬杖をついて、さっき毒の入ったワインを注ぎ込んだ花瓶を眺めていた。
「ダッタン市で暴動の鎮圧作戦があったことは確かに聞きました。しかし、あれは一時的なもので今は収まっていると報告がございましたが」
「知ってるかな。あれの中心にいた男の一人は、私の愛人と噂されるアリアドネラ伯爵だったことを」
「…!?」
今度は真っ青になって、ルイゼンは目を見開いた。
アリアドネラ伯爵が、ダッタン市へ?
なぜそのような場所に…そして、なぜ父上がダッタンへ派兵を行ったのか。
理由は一つしかない。
それを、この方はすでに察していらっしゃるのか。
「ルイゼン、ハイヴェル卿は多くのことをご存じのようだな。君もさっきのようなことを頼んでくるのだから、エウリルが犯した罪について詳しいのだろう?」
「…はい。しかし、エウリルさまはそのようなことをされるお方では」
「君は見ていないから、そう思うんだよ。あれの狂気は、王宮を破滅に向かわせかねない。ルイゼン、頼みがあるんだが聞いてくれるね」
呆然とアントニアを見つめるルイゼンにそう言って、アントニアは立ち上がった。
「君がハイヴェル卿から調べるよう指令を受けた王宮と相反する貴族のリストを、こちらにも渡してほしい。そうすれば、さっきの無礼は不問に付そう」
「アントニアさま、なぜそのことを」
驚いて目を見開きルイゼンが尋ねると、アントニアは唇の端で笑いながら答えた。
「アルゼリオについてから、君の部下を見張らせていた。ハイヴェル卿が、暴動が起こる前からダッタン市へ小軍を派遣していたのが不思議でね。何か分かるかと」
ワインを飲んでいきたまえ。そう言って、アントニアは書物を取り上げ部屋を出ていった。アントニアの言葉が耳から離れず、何か恐ろしいもののように感じてルイゼンは椅子に座り込んだ。
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