会食はシャンドラン邸で、日が沈んでからゆっくりと始まった。
シャンドランは民衆から選出される国民議会の歴代の議長において、唯一、男爵の爵位を持っていて、下位の貴族たちを招いて交流を図ることはあった。けれど、アリアドネラのように長く続いた由緒ある貴族と接触することはほとんどなかった。
シャンドラン邸から寄越された馬車に二人で乗り込むと、フリレーテはグンナの髪がおかしいと言って笑った。
貴族院や王宮とは敵ともいえるシャンドランの屋敷へ赴くとあって緊張していたグンナは、険しい表情のままフリレーテを見た。赤い髪に生えるシャンパンゴールドのバングルと、オルスナの民族衣装のような生成りの薄絹を何枚も重ねた衣装がよく似合っていた。フリレーテさま。グンナが呼ぶと、フリレーテはグンナの座席の隣に足を伸ばして乗せながら言った。
「グンナ、何が起こっても俺の名を呼んではいけないよ。もし誰かに名を問われたら、正直に王宮の衛兵軍の司令官だと言うんだ。俺の名は出さず、個人的に招かれたって言うんだよ。いいね」
「フリレーテさま、これから何が起こるのですか」
「さあ、何かが起こるかもしれないし、起こらないかもしれないな」
フリレーテが目を細めて言うと、グンナはフッと小さく息を吐いた。
シャンドランの屋敷はプティ市の郊外の、ほとんど隣市と言ってもいいような場所にあった。プティにギリギリ入っている所が、あの男の見栄だよ。そう言って、フリレーテはグンナにエスコートされて馬車を降りた。晩餐の準備の整った大広間に通されると、フリレーテはそこで待っていたシャンドランと握手を交わした。
「ご連絡をいただいて、身に余る光栄でございます。どうぞ自宅とも思っておくつろぎ下さい」
「男爵の所には、国内から珍しい食材が色々届くと聞いています。晩餐が楽しみだよ」
「珍しいと言えば、アリアドネラ伯爵、今日は珍しい方をお連れになると伺っておりますが」
フリレーテの後ろでエスコートしていたグンナを見上げて、シャンドランがフリレーテを大広間のテーブルに案内すると、フリレーテはグンナへ視線を向けて答えた。
「ああ、彼は王宮衛兵軍の司令官、グンナ=プトゥだ。王太子の命で私の護衛をしてくれている気の毒な男だよ」
「気の毒などと…シャンドランさま、初めてお目にかかります。よろしくお願いいたします」
王宮衛兵らしく礼儀正しく挨拶をすると、グンナはシャンドランと握手をした。堂々と名を明かしたが、大丈夫なのか。少し心配げにグンナがチラリとフリレーテを見ると、フリレーテはグンナを気にすることなくもうハラペコだと笑ってシャンドランをテーブルに促した。
晩餐会は厳かすぎるほど厳かに、王宮やプティ市の様子を交えた会話と共に進んだ。メインディッシュが終わり、小さく切ったフルーツやアイスクリームを浮かべたシャンパンが運ばれてくると、フリレーテはスプーンを取り上げてシャンパンに沈んだフルーツをすくい上げた。
「男爵、あなたもご存じのように、私はここしばらくの間、ずっと王宮にいた」
「ええ、存じております」
うっすらと笑みを浮かべ、柔和な表情でシャンドランは答えた。明るいシャンデリアの光の下で、アイスクリームがシャンパンの中にやわやわと溶けていった。それを眺めながら、フリレーテはスプーンを口に運んでから言葉を続けた。
「そこで、太陽のごとき母なるお方から、あなたと話したいので連絡を取るようにと頼まれた。大儀なことだがご足労いただけると助かる。私も立場的に、あの方にはとても逆らえないものでね」
そう言って目を細めると、いかがかと尋ねてフリレーテはシャンドランの顔を眺めた。
随分、ツヤツヤしてるじゃないか。
サニーラの方が、余程何かに吸い取られているかのようだ。
そう考えるとおかしくなって、フリレーテは笑いを堪えてスプーンをガラスの器に入れた。スプーンの表面にシャンパンの泡がついて、それを眺めていたフリレーテの美貌を堪能しながらシャンドランは答えた。
「王宮から招かれたならば、私は王宮へもどこへでも参りますよ。ただ、王宮の方が私を遠ざけているのでは?」
「さあ、真意は直接会って聞くがよい。私はただ、伝書鳩の役目をするよう言われただけだ。なぜあなたを呼ぶのかも、私は聞いていないので」
「分かりました。早速、伺いましょう。その証にこちらのカードをお持ち下さい。ああ、私が王宮についた途端、逮捕などということはありますまいな」
自分の席の脇に置いてあったシャンドラン家の紋章の入ったカードにサインをすると、、苦笑いしてシャンドランが言った。心当たりがおありなら、お断りなさい。フリレーテが笑みを浮かべて答えると、では堂々と参りましょうと言ってシャンドランはテーブルの上で両手を組んだ。
「それから、私の名はどうかその胸に秘めていただきたい」
「いいでしょう。あなたと私だけの秘密と思えば、守るのが楽しくなる」
フフッと笑うと、シャンドランはフリレーテの美しい顔を眺めた。
下品な男だ。
自分は参加することはないものの、衛兵として何度も王宮の晩餐会に居合わせたことのあるグンナは、真似事のような今夜の晩餐にすでに話す気も失せて黙り込んでいた。
大体、国民議会議長でありながら、爵位を持つとはどういうことだ。議長となったのも、何かの間違いか金やコネの力じゃないのか。
考えながらシャンパンにアイスクリームが溶けて濁っていくのを見ていたグンナは、ふいにピクリと視線を上げて振り向いた。来たか。隣に座っていたグンナにしか聞こえない声で、フリレーテが呟いた。驚いてグンナがフリレーテを見ると、玄関で大きな音がして、シャンドランが慌てて立ち上がった。
「何事だ! 客人がおいでだぞ!」
「ご主人さま、大変でございます!」
大広間のドアが開いて、執事らしい男が血相を変えて入ってきた。フリレーテが振り返ると、グンナがフリレーテを守ろうと立ち上がった。執事はグンナへ視線をやってから、シャンドランに耳打ちした。
「何…!?」
「呼びもしない不粋な客人がおいでのようだな。私はこれで失礼するよ。今夜は楽しかった」
落ち着いた様子でそう言うと、フリレーテは席を立ってシャンドランがサインを入れたカードを取り上げ、大きく開いたドアの方へ歩き出した。玄関の方から造反者はどこだと怒鳴る声が聞こえた。
「フリレーテさま!」
呆気にとられたシャンドランと大広間に残され、何が起こったのか分からずにグンナは慌ててフリレーテを追いかけた。大広間を出ると長い廊下にフリレーテの姿は既になく、両側から王立衛兵軍の制服を着た兵士が数人、シャンドランの使用人たちを押しのけるようにしてなだれ込んできた。
「フ…」
何が起こっても俺の名を呼んではいけないよ。
フリレーテの言葉を思い出し、グンナは言葉を飲み込んだ。フリレーテさまは一体どこへ行ってしまったんだ。兵士たちに捕らえられたのでは。青くなってグンナが視線をさまよわせると、兵士はグンナの姿に気づいて大広間へ向かってきた。
「今夜、ここで王宮への造反集会が行われると通報があった。アリアドネラ伯爵はどこだ!」
小隊の司令官らしい男がグンナに向かって怒鳴りつけた。階級章を見て自分よりも下級の軍人だと知ると、グンナは答えた。
「私は王宮衛兵軍第三部隊の司令官、グンナ=プトゥだ。今夜は個人的にシャンドラン男爵に招かれ、食事をしていた所だ。王宮への造反とはいかなることか」
「…!」
グンナから階級章を見せられ、兵士たちは驚いてグンナに向かって敬礼をした。後ろから近づいたシャンドランが、状況を把握したのかグンナの隣に立って兵士たちに話しかけた。
「私は確かに国民議会議長という、君たちから見ると煙たい立場にあるかもしれない。だが、私人として王宮衛兵の知人と夕食を摂っていてはおかしいかな」
「食事は三人分準備されているようだが。もう一人はどこへ?」
司令官が厳しい目つきで尋ねると、シャンドランは落ち着きを取り戻してゆったりと答えた。
「今夜は私の執事の労をねぎらい、三人で歓談していた所だ。今日は執事の誕生日でね」
「そっ、そうでございます。我が主が造反などと、言いがかりでございます」
緊張した様子で執事が続けると、司令官は軽く舌打ちをしてとにかく屋敷を捜索するとシャンドランに申し渡した。張りつめた空気が大広間を満たした。フリレーテさま、ご無事だとよいが。兵士にここに留まるよう言われてフリレーテを追うこともできず、グンナは封鎖されている門を窓から見て重い息を吐き出した。
その夜、シャンドランの屋敷でフリレーテが発見されることはなかった。グンナは造反集会が行われていると通報があった場にいたために、拘束されてアストリィへ戻り査問にかけられることとなった。
どちらにせよ、あのままプティにいてアリアドネラの屋敷へ戻っても、王宮衛兵に見張られたままではフリレーテさまに迷惑がかかる。あの時以来、姿を見せず会えないままのフリレーテへの思いが、グンナの中で膨らんでいた。
自分の立場や今後のことは、不思議と考えが及ばなかった。
不安も、何も。
数日かけて馬車でアストリィへ護送されたグンナは、王宮衛兵軍の査問委員会でも繰り返し、シャンドランとは個人的に知り合って夕食を共にしていただけだと言った。フリレーテは王宮でも、グンナの前には現れなかった。逃亡しないよう王宮衛兵軍の施設の一部屋を与えられ、見張りが二人ついた状態でグンナは無為な時間を過ごしていた。
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