「王太子さま、右のおみ足をもう少しだけ前へお願いいたします」
絵師の注文に素直に足を出したアントニアの姿を、部屋へ入ってすぐ、ドアの所から不貞たような顔で見ていたフリレーテは、こちらを無視するように身動きをせずにいるアントニアから顔を背けて部屋を出ようとした。
「フリレーテさま、王太子さまがこちらでお待ちになるようにと」
王宮の侍従が優雅に遮った。絵師がアントニアの肖像を描きはじめると、フリレーテは大きな窓のそばに置かれたテーブルの上にどかっと腰を下ろした。
戻ってこいと言うから戻ってきたのに、当の本人はこの始末だ。
戴冠式の様子を模して描かせているのか、アントニアは王冠を被り王のマントを背にしていた。いい気なもんだ。こいつは何にも分かっちゃいない。フリレーテの無法をやんわりと咎めて侍従が椅子を引くと、フリレーテはそこに靴を履いたまま足を乗せて頬杖をついた。
プティからアストリィへ戻る道のりは、早馬で駆け抜けた往路とは違いどこか荒れているような気がした。
スーバルン人やオルスナ人だけじゃなく、アストラウル人の中でも、苦しい生活に不満が高まっているように見えた。ちょっとしたことで喧嘩が起こったり、働き盛りの男が職を失い、無気力に座り込んでいたり。
比較的、マシなはずの地域でもそうだ。貧民街の多いサムゲナンやダッタンはどんな有様だろう。それを分かっているのかいないのか、この頭に虫の湧いた王太子は呑気に肖像画など描かせている。
俺には関係のない話だが…嫌でもルイカとしてオルスナで暮らしていた、あの苦しい生活を思い出す。
「君にこの姿を見せたくてこちらへ呼んだんだが、喜んでもくれないんだね」
ふいに後ろから両肩をつかまれ、フリレーテが振り向くとアントニアは苦笑してフリレーテの顔を覗き込んだ。私は外見的な美しさには興味がないのです。どうでもいいことのようにフリレーテが呟くと、アントニアはフリレーテから手を離して今日はやめようと絵師に声をかけた。
「今日は暑い。マントを羽織って涼しげな顔をしているのも限界だよ」
侍女たちが重いマントや王冠を外しているのを待ちながらアントニアが言うと、フリレーテはアントニアを見上げ、テーブルから滑り降りた。付き合ってられない。フリレーテが再び部屋から出ようとすると、開いたドアの所で先触れに訪れたサニーラの侍女とぶつかりそうになり、フリレーテは一瞬体を捩らせてそれを避けた。
「サニーラさまがおいででございます。王太子さま」
「そうか、ありがとう」
優雅に王宮式のお辞儀をした侍女ににこやかに答えると、アントニアはフリレーテに近づいてその手をつかんだ。こちらへおいで。お母さまに挨拶を。アントニアに言われてフリレーテが下がると同時に、数人の貴族の夫人たちを侍らせ華やかなドレスを身にまとったサニーラが入ってきた。
「ご機嫌よう、アントニア。肖像画を描かせていると聞いたので…」
言いかけてフリレーテの姿に気づくと、サニーラはさっと表情を強張らせた。それもよく見ていなければ分からないほど一瞬のことで、フリレーテがチラリと視線を走らせると、サニーラは悠然と微笑んだ。
「あら、アリアドネラ伯爵もご一緒だったの。お久しぶりね」
「王妃さまにはご機嫌麗しゅう。プティから届けた私の贈り物は、受け取っていただけましたか?」
魅力的な笑みを浮かべてフリレーテがサニーラの前に跪き、その手に軽くキスをすると、サニーラはええ受け取ってよと優雅に答えた。
「とても素敵な贈り物だったこと。けれど、このように王宮で再びそなたとまみえるとは。しばらくプティのアリアドネラ邸にいるとばかり思っておったが」
「いえ、王太子さまのお小姓を勤められている方が迎えにきて下さったので、急ぎ戻ったのです。アントニアさまに請われては、私とて拒むことはできませんから…」
触れた花びらが落ちるような儚げな笑みを浮かべて、フリレーテが目を伏せて答えた。サニーラの周りにいた夫人たちが、うっとりとした表情でため息をつき、何か小声で囁き合った。よく言うな。さっきまで迷惑そうな顔をしていたくせに。黙ったままアントニアがフリレーテの隣に立っていると、サニーラは目尻に笑みをたたえてアントニアを見た。
「忙しい身だろうけれども、たまには私やノーマの所へ顔を見せてちょうだい。この母は、あなたの晴れ姿を楽しみにしていますよ」
「ええ、お母さま」
サニーラの手を取って指先に口づけると、アントニアは優雅にお辞儀をした。ドレスの長い裾を翻して部屋を出ると、同じように着いてきた貴族夫人たちにも構わずサニーラは右手に持っていた扇を強く握りしめた。
フリレーテ、あの者がまた王宮に舞い戻るとは。
プティ市に常駐しているハイヴェル卿所属の軍兵は、確かにあの夜、シャンドラン邸に踏み込んだと聞いたのに、なぜかそこにいたのは王宮衛兵軍の司令官一人だった。シャンドラン家へ送り込んだ使用人の話では、確かにフリレーテはシャンドランと密会していたはずなのに。
フリレーテさえ逮捕されれば、私に頼まれたと言い張った所でしらを切り通せたものを。
忌ま忌ましいフリレーテ。やはり密かに亡き者とするしかないのか。
「私は部屋へ戻ります。貴族院の視察は中止よ。みなさんはどうぞサロンでご歓談なさって」
「仰せのままに、王妃さま」
笑みを浮かべて優雅に挨拶をする夫人たちと別れ、震える手で扇を閉じてサニーラは自室へと向かった。どうすればあの者を目の前から消し去ることができるのか。考えながら長い廊下を歩いて、サニーラはキュッと唇を噛み締めた。
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