日が暮れかけると、スラナング男爵の使用人が部屋に入ってきて蝋燭に火を灯した。アサガは護身用の剣を研ぎに出すと言って、ヤソンと一緒に出かけていた。与えられた部屋でヤソンの言った『会わせたい誰か』を待ちながら、ナヴィは窓際の椅子に腰掛けていた。
「誰だろう。市警団のメンバーなのかな」
ナヴィが呟くと、ソファに寝転んで目を閉じていたガスクが気怠げにナヴィを見た。考えても分かんねえだろ。素っ気なく言ったガスクに、ナヴィはそうだけどと不満げに答えて立ち上がった。
「ガスク」
「不安?」
目を開いてガスクが見上げると、ソファのそばに立ったナヴィはソファの肘置きに腰掛けてため息をついた。不安じゃなかったら、その方がびっくりするよ。ナヴィが言うと、ガスクは笑った。
「来るか」
からかうようにガスクが手を広げた。頬を赤く染めてガスクをにらむと、ナヴィは膝を抱えてガスクを見下ろした。
「話し合いが終わったらダッタンへ戻るんだろ?」
「どうだろうな。まあ、一度は戻ることになるだろうな」
ソファの背に手をついて、ナヴィはガスクの顔を覗き込んだ。息が降り掛かりそうなほど目の前にあるナヴィの顔に触れると、ガスクは目を細めた。
「お前がプティでやりたいことって、何だったんだ?」
ガスクの大きな手が、ナヴィの体を抱き寄せた。狭いソファの上では不安定で、それでも身を起こさずにナヴィはガスクの体に腕を回した。心臓の音がする。ガスクの厚い胸に耳を押し当てて目を閉じ、それからわずかに目を開いてナヴィは答えた。
「ガスクがここで市警団と話し合っている間、プティにいる僕の先生を訪ねたいんだ」
「先生?」
驚いてガスクがナヴィを抱く手の力を緩めると、ナヴィはガスクの胸に頭を乗せたまま頷いた。僕が子供の頃。ボソリと呟くと、少し言葉を選んでナヴィは体を引き上げてガスクの顔を覗き込んだ。
「プティに住んでいる貴族で、数学と歴史を教えてくれていた人だよ。少し変わってるけど、とても穏やかで優しい人なんだ。本当は僕がダッタンに留まって、あの娼館でみんなに文字を教えてあげたかったけど…僕があそこにいたらみんなに迷惑だから、先生に頼みたいんだ」
「バカだな。貴族がスーバルン人の所になんか来るかよ」
呆れたようにガスクが言うと、ナヴィはだけど…と呟いてガスクの首筋に額を押しつけた。しばらく二人とも黙り込んで、ガスクの方が先に口を開いた。
「それに、これから戦場になるかもしれないダッタンに来てくれるような奴は、スーバルン人でもいるかどうか分かんねえぞ」
「今じゃなくてもいいんだよ。今じゃなくても、いつかでもいい。先生はアストラウルのスーバルン人の伝承を研究していて、僕にスーバルン人の歴史を教えてくれた人だ。先生ならきっと、僕の考えを理解してくれると思う」
顔を上げてナヴィが囁くように言った。目が合うと、ガスクは真っ直ぐにナヴィを見つめた。息を潜めてガスクの表情を伺うナヴィの額に触れると、ガスクは目を伏せてナヴィの頭をくしゃりとなでた。
「いいよ、もう。好きなようにしろ。俺が止めたって止まるような奴じゃないのは、これまででもう嫌になるほど思い知らされたよ」
ナヴィから手を離して、ガスクは目を閉じた。その軽く開いた唇にちゅっと音を立てて唇を合わせ、ナヴィは小さくうんと呟いた。ゆっくりと開いたガスクの目は、濡れたように光って美しかった。頬を傾けてガスクにキスをすると、ナヴィはガスクの顔の脇に腕をついてその唇を貪った。
激しく、柔らかく…熱っぽく。
「ダッタンではあんなに二人でいたのにな」
ナヴィの髪に手を突っ込んで軽くつかむと、そう呟いてガスクが苦笑した。何の話? ナヴィがガスクのこめかみに触れて尋ねると、ガスクはいきなりナヴィの尻をギュッとつかんだ。
「うわっ!」
耳まで真っ赤になってナヴィが身を起こすと、ガスクは声を上げて笑った。何するんだよ! ペチッとガスクの額をナヴィが軽く叩いた。
「ここじゃ、これ以上は無理だろ。もっと早く気づけばよかったよ」
そう言って、ガスクがわずかに潤んだ目でナヴィを見上げた。ナヴィが自分の尻をなでながら意味分かんないよと呟くと、ガスクはニッと笑みを漏らしてナヴィの鼻をつまんだ。
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