「遅いですね。夕食を一緒にという話だったのに」
日が暮れかけた頃、アサガとヤソンがスラナング邸に戻ってきた。プティ市内の様子を聞いている間に日は暮れて、ナヴィやガスクの腹が鳴り出す頃には窓の外が真っ暗になっていた。
「何もしてないのに、お腹は減るんだね」
ナヴィが言うと、アサガが苦笑した。何か食べるものを買ってくるべきだったな。ヤソンが笑いながら言うと、ナヴィの座るソファの側に立っていたアサガがヤソンを見上げて尋ねた。
「プティにはそんな店もあるんですか? あまり見当たらなかったけど」
「剣を研ぎに出した店は裏通りだから、表に出ればそれなりに庶民でも入れるような値段の店もあるよ。何だ、連れていってあげればよかったな」
「いいですよ。エウリルさまもいなかったし」
アサガが笑みを見せながら答えると、部屋に置いた小さなテーブルに座って話を聞いていたガスクがニヤリと笑った。急に仲良くなったな、お前ら。ガスクが言うと、アサガがビクッとして真っ赤になった。
「そりゃ、半日あれば親しくもなるでしょ。僕はこの辺りのことは全く知らないし、ヤソンに連れていってもらわなきゃ…」
「剣を受け取る時に行けばいいんじゃない? またヤソンと行くんだろ?」
ナヴィがアサガを見上げて言うと、アサガはぱかんと口を開いたままナヴィを見つめた。それから少し拗ねたような表情で、ナヴィから視線をそらす。
「そうですよね。エウリルさまは、ガスクとここにいる方がいいんですよね」
「何でだよ。そんな話してないだろ」
アサガの言葉に、今度はナヴィが赤くなった。それを見て苦笑いすると、ヤソンが取りなすように口を開いた。
「まあまあ。腹が減ってるなら先に夕食をいただこう。準備をしている間、簡単に現状を説明しようか」
そう言って、ヤソンはスラナング邸の侍女に夕食を運ぶよう頼んだ。市警団の他のメンバーも数人いる中で部屋の一番大きなテーブルに地図を広げると、ヤソンは脇に置いていた石作りのチェスの駒を取り上げ、ガスクたちに視線を流した。
「現在のアストラウルの状況だが、王都アストリィにいるのが皆も知っている…特にナヴィはよく知っているな。ここに政権を握る王太子アントニアがいる」
話しながら黒いキングをコトリと地図の上に置くと、黒いポーンを隣に並べてヤソンはその南側に当たる位置にナイトを置いた。
「王太子の護衛は基本、近衛隊ではなく衛兵軍が行っているようだ。情報では、衛兵軍は王立軍から独立しているらしい」
「お父さま…王から聞いたことがある話だけど、昔は近衛軍が王族の護衛をしていたけれど、近衛軍を動かす権限はハイヴェル卿が持っているから、そのうちに王族が権限を持つ独立した軍隊が作られたんだって。だから、衛兵軍には将軍はいないんだって」
「じゃあ、王宮を倒すには両方を相手にしなきゃいけないってことか」
ナヴィの言葉にガスクが唸るように言うと、ナヴィの隣で話を聞いていたアサガが付け加えた。
「衛兵軍所属の兵は、王立軍に比べると圧倒的に数が少ない。せいぜい一貴族の私設団をわずかに上回るぐらいだ。王宮で王族を守る任務がほとんどで、外での戦いにも慣れていない。それほど重要視しなくてもいいんじゃないですか」
「確かに、少数精鋭と言われているのはハイヴェル卿率いる王立軍兵の方だ」
言いながら、アストラウルの各地に白いポーンを置いて、ヤソンはそれを一つ一つ指差しながら話を続けた。
「今、我々に協力してくれると確約している貴族の私設軍はこれだけだ。アストリィに五百、ダッタンに百二十、アルゼリオに七百、そしてプティには千五百。これに加えて…」
「ダッタンとサムゲナンに住むスーバルンの戦士は、八十ほどだ。数は少ないが、力にはなれると思う」
腕を組んでガスクが言うと、ヤソンは目を細めて結構と答えた。今言った数字は確実にこちらへついてくれると分かっている数だ。そう言って、ヤソンは白いキングをプティに置いた。
「それに、俺たちには他の貴族を動かすだけの力を持ったキングがいる。現状では数で王立軍に及ばないが、一旦事が起これば、日和見の貴族たちがこちらへ着く可能性もある」
「貴族ばかりだな。平民はお前たちと俺たちだけか」
眉を潜めてガスクが尋ねた。ナヴィがヤソンを見ると、ヤソンの代わりに後ろにいた市警団の男が答えた。
「軍隊とは違ってはっきりとした数は分からないが、多くのプティ市民が現政権に不満を抱いている。今にも暴動が起きかねないほど、王宮への不満は高まっているんだ。俺たちが挙兵すれば、恐らく反王宮側に与する奴らは大勢いるだろう」
「…」
黙ったまま考え込んだガスクの横顔を、ナヴィがそっと見上げた。そんなに上手くいきますかね。アサガが呟くと、ふいに屋敷の玄関の方でざわつく音が響いた。
「おいでかな」
ニッと笑ってヤソンが言った。ナヴィたち三人がドアの方を見ると、忙しなく廊下を歩く音の後に遠慮がちなノックが響いた。
「失礼いたします。お客さまがお着きになられましたが、どちらへ」
「大広間へお通ししてくれ」
ヤソンが自分でドアを開けて言うと、執事がかしこまりましたと礼をした。それと同時に別の足音がいくつか近づいてきて、ナヴィとアサガが視線を合わせると、慌てたようにやってきた侍女が執事に声をかけた。
「あの、こちらで構わないと仰って…あ」
「ヤソンがエウリルを連れてきたというのは本当か!?」
低く、よく通る声が廊下に響いた。
驚いてナヴィが顔を上げると、ヤソンがニコリと笑って頷いた。あの声は…。放心したようにアサガが呟いた。二人の様子に怪訝そうな表情でドアの方を見たガスクを置いて、ナヴィはそこに立っていた市警団のメンバーを押しのけて廊下に飛び出した。
「ローレン!」
侍女や使用人と話しながら早足で廊下を横切ってきたローレンが、ナヴィの声に驚いて目を見開いた。
「…エウリル!」
ローレンの声は懐かしく、以前と少しも変わりがなかった。少し痩せているものの、王宮にいた頃と同じ姿がそこにはあった。ナヴィに続いてアサガが廊下に出ると、ローレンは満面の笑みを浮かべて足を踏み出した。
「エウリル! アサガ! 無事だったのか!!」
「ローレン、ローレン!」
駆け出したナヴィが、ローレンの胸に飛び込んだ。その細い体を抱き、続いて駆け込んできたアサガの小柄な体も抱きとめると、ローレンは本当に生きていてくれたんだなと囁いて目尻に涙を滲ませた。ヤソンと共に廊下に出てきたガスクが目を見開いたまま三人を見ていると、ヤソンが横目でガスクを見て口を開いた。
「あれが俺たちの根幹、ヴァルカン公だ。お前に一番会わせたいと思っていた人だよ」
ナヴィの…エウリルの、兄。
ぼんやりとローレンの涙を見て、ガスクは小さく息をついた。思わず二度目の息をつくと、ガスクはようやく気づいたようにヤソンへ視線を向けた。
「お前、今日来るのがローレンだって知ってたのか」
「黙ってた方が面白いかと思って」
飄々と答えたヤソンに、面白すぎだと答えてガスクはナヴィたちを見た。ローレンとの再会を喜びながらその手を強く握りしめ、ナヴィがもう片方の手で涙を拭っていた。
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