アストラウル戦記

 ヴァルカン公、ローレンはそこに立っているだけで、どこか人を圧倒するような風格を漂わせていた。
 部屋に入ってヤソンからガスクを紹介されると、ローレンはガスクの手をがっちりと握りしめた。あなたの力を貸していただけたらと、そう思っています。丁寧で穏やかな言葉遣いで言うと、ローレンはガスクの鋭い眼差しを見て笑みを浮かべた。
「俺たちに大きな力はないが…俺自身はあんたと共に戦おうと考えている」
 仲間の気持ちはまだ分からないが、説得してみよう。そう付け加えると、ガスクはテーブルの上のアストラウル地図に視線を落とした。それはさっき話していた時のまま、チェスの駒があちこちに置かれていた。脇に置いてあったルークを取り上げて、プティの位置にある白いキングの隣へ置くと、ガスクは一瞬それを眺めてからローレンへ視線を向けた。
「エウリル王子の婚儀の時にはアストリィにいたあんたが、たった数カ月でこれだけの人心をまとめ上げている。そのことに希望を託したい」
 黙ったままローレンがガスクを見ると、ガスクは真顔で言葉を続けた。
「俺たちはどんなに努力しても変わらない現状に疲れている。自分たちで変えなければ意味がないのは分かっているけど、今はどうすることもできない状況でもある。あんたがもし俺たちの手助けをしてくれるなら、俺たちもあんたに恩義を返そう」
 ローレンの斜め後ろに立っていたナヴィが、チラリとガスクへ視線を向けた。その場にいた市警団の男たちがホッとしたように安堵の息を漏らした。ありがとう、ガスク。そう言ってもう一度右手を差し出すと、ローレンはガスクの右手をギュッと力強く握りしめた。
 市警団の人間が部屋を出ていくと、そこにはヤソンとガスク、それにナヴィたち三人が残された。ローレン、食事をしながら話さないか。ヤソンが言うと、ローレンはありがたいと答えた。
「朝からまだ何も食べていないんだ。もう倒れそうだよ」
「今、君に倒れられるのは痛手だな」
 心安く笑いながらヤソンがローレンの肩を叩いた。ヤソンは以前からローレンと親しかったの? ナヴィが不思議そうな表情で尋ねると、ローレンはいやと答えて目を細めた。
「初めて会ったのは、アサガとダッタンの近くで別れた後だ。アサガにはエウリルを迎えにいくよう頼んで私はプティへ向かい、エカフィからヤソンを紹介されたんだ。まさか、お前たちがヤソンといるとは思ってもみなかったよ」
「アサガから聞いたけど…王宮と戦うって本当なのか」
 真っ直ぐにローレンを見上げると、ナヴィは強い口調で尋ねた。ヤソンとガスクがナヴィを見ると、ナヴィは眉を潜めて言葉を続けた。
「ヤソンやガスクと一緒に戦うってことは、お父さまやアントニアと戦うってことなんだろ。ローレンが王宮を出た理由、アサガから少し聞いたよ。もし僕のことが理由の一つなら、僕を陥れたのはアントニアじゃなくて」
「分かっている。でも、私はもう決めたんだ」
 お前のことがあったからじゃない。そう言って、ローレンはナヴィの肩をつかんだ。
「ヤソンたちと一緒にいたのなら、お前も分かっただろう。今の王宮はお父さまの影響が薄れて暴走しかけている。私は内から何とかそれを食い止めたかったが…例え今、それを防いだとしても根本的な解決にはならない」
「…」
「エウリル、お前のためにも…いや、お前も私と共に戦ってほしい。お前の母と妻、それにお前自身の名誉のために」
 黙り込んだナヴィをジッと正面から見つめて、ローレンが力強く言った。所在なくわずかに揺れた瞳が、ナヴィの戸惑いを映していた。答えられずにナヴィが視線を伏せると、ローレンはポンとナヴィの頭をなでてから話を続けた。
「返事は後でいい。お前がそばにいてくれれば心強いとは思うが、お前にとってもアントニアは兄だ。ゆっくり考えて結論を出してくれ」
「分かった、ローレン…ありがとう」
 ナヴィの声を聞きながら、ガスクは軽く息をついた。ローレンと話すナヴィを見ると、本当に王子なのだと思い知らされた。重い胸を抱えたままガスクが荒っぽく椅子を引くと、ヤソンが笑みを浮かべて食事にしようとローレンたちを促した。

(c)渡辺キリ