アストラウル戦記

 ローレンの目の前に立つと、ユリアネは息を詰めた。
 久しぶりに会ったローレンの顔には、以前にはなかった翳りが見えた。何があったの。何があなたを蝕んでいるの。そう言いたくても言葉にならなかった。スラナング邸でローレンと相対したユリアネは、ローレンの手を両手でしっかりと握りしめた。
「ユリアネ」
 ローレンの声は少しかすれていた。ユリアネが頷くと、ローレンはユリアネの体を抱きしめた。
「…恋人いたんですね」
 その様子を部屋の端で見ていたイルオマは、涙を袖で拭いていたアサガに囁いた。しかも第二王子。どこか刺々しいイルオマの声を聞くと、アサガはムキになって小声で言い返した。
「ユリアネはローレンさまと本当に愛し合ってたんだ。でも、ローレンさまのご結婚が決まって…ローレンさまならユリアネを愛人にもできたのに、ローレンさまがユリアネのためにと仕方なく別れたんだよ。それ以来、ローレンさまは奥さま以外の女性を側に置かれない。ご立派な方だよ」
「でも、ああやって抱きしめてるじゃないですか」
 それだけ言うと、イルオマは部屋の本棚に置かれた書物に目をやった。地図に兵法の本、経済、文化、政治。古今東西の書物がたくさん揃えられた書斎は、スラナング男爵のものかローレン王子のものなのか。
 元は王太子と並んで王宮を、国を動かしていた第二王位継承者。
 それなりに、いや、これまで自分が見てきた以上に人望はあるんだろうが。
「ローレン…私、ルイゼンからの伝言を」
 二人が見ていることに気づいて、慌ててローレンを押し返してユリアネが言うと、ローレンは驚いたようにユリアネを見た。ルイゼンは今、アストリィか。ローレンが尋ねると同時にドアがノックされて、ローレンがどうぞと言うと、ナヴィがガスクと共に部屋に入ってきた。
「トアルの怪我、大したことないって」
「右耳を殴られたんで今はちょっと聞こえにくいが、少し休んでいれば治るらしい。丸腰なのに無茶するから」
 呆れたようにガスクがナヴィの言葉に付け加えると、ローレンはホッと息をついてよかったと呟いた。
「町で兵士たちとぶつかったことはアサガから聞いたよ。二人も大変だったな。無事でよかった」
「軍との小競り合いは日常茶飯事さ。それより」
 ガスクがチラチラとユリアネやイルオマに視線を向けると、ローレンは座ってくれとソファを示して自分も腰を下ろした。アサガ、お茶を頼めるかな。ローレンの言葉にアサガは承知しましたと答えて部屋を出ていった。
「ユリアネは元、エウリルの侍女をしていたオルスナ人だ。エンナ王妃が婚礼の際にオルスナより連れてきた侍女の一人だ」
「ユリアネです、よろしく。あなたがスーバルンゲリラのリーダーね」
 軽く笑みを浮かべて、ユリアネはガスクに向かって右手を差し出した。ガスクが大きな手でその手をつかむと、ユリアネは両手でガスクの右手を握りしめてその黒い目を見上げた。
「エウリルさまを助けて下さったそうで、どんなに感謝してもしきれません。あなたのために何かできることがあれば、何なりと仰って下さい」
「こいつを助けたのは俺のお袋だ。礼ならお袋に言ってやってくれ」
 ガスクがそう言って手を離すと、ユリアネは笑って、それならあなたのお母さまにお会いした時に改めてと答えた。ナヴィとガスクがローレンの右隣のソファに座ると、ユリアネはナヴィの向かいに腰を下ろしてイルオマを見た。
「イルオマ、あなたも」
「私は関係ありませんから、散歩でもしてきますよ」
「駄目だ。お前一人でこの屋敷内を歩かせる訳にはいかない」
 ガスクがいつもと同じ表情でアッサリと言うと、イルオマは一瞬黙り込み、それから息をついた。そりゃそうですよね。そう答えて、イルオマはユリアネの隣に腰掛けた。
「斥候や密偵の可能性がありますもんね」
「ないとは言えないだろ」
「ユリアネ、あなたの話の前に、私の話をしてもいいですか。長くはかかりませんから」
 そう言ってまた立ち上がると、イルオマは自分の大きな鞄を引きずるようにして持ってきて、中を開いた。そこから丸めて紐で結んだ大きな紙をいくつか取り出すと、イルオマはそれをローレンに渡した。
「これが、私の土産です。私は元ハイヴェル卿管轄王立軍諜報部隊曹長、イルオマ=アレギナです。除隊することはすでに上官には手紙で、近衛大将のルイゼン=ド=ハイヴェルには直接告げてあります」
「諜報部隊所属のお前が、なぜルイゼンに?」
 ローレンがイルオマを見上げて冷静に尋ねると、イルオマは直立したまま軍人らしく答えた。
「私はハイヴェル卿からの指令で、極秘でルイゼンさま指揮によるエウリル王子捜索任務を遂行しておりました。ハイヴェル卿の真意は分かりませんが、ルイゼンさまはエウリルさまを王宮に連れ戻し、裁判で無実を証明するおつもりだったようです」
「そうか…ルイゼンが」
 そう呟いて、ローレンはイルオマに渡された巻き紙の紐を外して広げた。
「…これは」
「お疑いなら、手持ちのアストリィの地図と比べて下さい。現在のアストリィの地図と、王宮の見取り図です。私自身が測量したので、他のものよりも詳しく正しいはずです」
「お前がスパイではないという根拠は。これだけではこちらを陥れるために偽の地図を渡した可能性もある」
「もう一つの巻き紙をごらん下さい」
 イルオマが言うと、ローレンは地図をローテーブルに置いてから少し小さな巻き紙の紐を解いた。そこには貴族の名前がつらつらと書かれていて、ローレンはそこに視線を走らせてから驚いたようにイルオマを見上げた。
「イルオマ、これは」
「ローレンさまと盟約を交わしたアストリィに住む貴族のうち、すでに王宮へと寝返っている者たちのリストです。名前の下にあるのは、その貴族の持つ軍兵の数です。もしお疑いなら、腹心の者に調べさせて下さい。裏を取るだけならそう時間もかからないでしょう」
 それだけ言うと、イルオマはユリアネの隣に座った。ユリアネがそっとイルオマの横顔を見ると、イルオマはこれまでに見たことがないほど固い表情をしていた。王宮の地図も恐らく間違いないよ。地図を覗き込んでナヴィが言うと、イルオマは頷いて口元に笑みを見せた。
「イルオマ、お前…本当に軍を除隊してきたのか」
 ナヴィが呆然と尋ねると、イルオマはテーブルの上の紙を取り上げクルクルと巻きながら嬉しそうに頷いた。
「はい。できればこちらでお世話になろうかと。自分で言うのも何ですが、私は役に立ちますよ」
「そりゃ、アスティと見れば袋叩きにしかねないうちの連中に見つからずに、ラバス教寺院の奥まで入ってきたような奴だからな。有能なんだろうが」
 ジロリとイルオマを見てガスクが言うと、ふいにドアが開いてアサガがワゴンを押しながら入ってきた。どうなったんだろう。様子を伺いながら紅茶を入れてまずローレンに出すアサガを見上げて、ローレンは尋ねた。
「アサガはイルオマを知ってるのかな。彼、どう思う。信用するに足る人間かな。間諜という可能性はあるだろうか」
 ローレンの問いに、アサガは困ったようにイルオマを見た。緊張した面持ちでアサガを見上げたイルオマに、アサガは少し考えてから答えた。
「姉さんが連れてきたのなら、大丈夫だと思います。もしこの男が間諜になるような人間なら、ユリアネ姉さんはプティまで一緒に来る間に何か気づくでしょうし、信用できない人間と旅をするような人じゃありませんから」
 アサガの言葉に、ユリアネが真っ赤になって無茶言わないでよと言った。
「私、イルオマのことは何も知らないわよ。アストリィで初めて出会ったんだもの」
「分かってるよ。でも、僕たちを騙すような男とユリアネが旅してくる所が、僕にはどうしても想像できないんだ」
 アサガが言うと、黙って聞いていたナヴィが僕もと答えた。肩の力を抜いたイルオマを横目で見ると、ユリアネはローレンに視線を向けた。
「ローレン、それならイルオマが持ってきたリスト以外の貴族に頼んで、イルオマが本当に除隊したのか確かめてもらってちょうだい。それまでは私がイルオマの身柄を預かるわ。もしイルオマが本当に王立軍の間諜なら」
 険しい表情で、ユリアネはギュッと自分の左手を右手でつかんだ。ローレンがユリアネをジッと見つめると、ユリアネは息を吸って一気に吐き出した。
「私がイルオマを切ります。連れてきた責任を取るわ。それでいいでしょ、イルオマ」
「最後の所はいいとは言いがたいけど、いいですよ。そういうことにはなりませんし、ユリアネに人殺しはさせません」
 イルオマがはっきりと答えると、ナヴィとガスクがソファに深く腰を沈めて息をついた。分かった。すぐに調べさせよう。そう言って穏やかに笑みを浮かべると、ローレンはフッと小さく息を吐いてイルオマとユリアネを見比べた。

(c)渡辺キリ