アストラウル戦記

 イルオマはしばらくアサガかナヴィのどちらかと行動を共にすることになり、ローレンはイルオマが持ってきた情報の裏を取るために、スラナング男爵を通してアストリィへ伝令を走らせた。スラナング邸で借りた部屋に戻っていたローレンを訪ねると、ユリアネはローレンの勧めに従ってバルコニーに出た。
「まるで…いえ、何でもないわ」
 スラナング邸の庭を眺めながらユリアネが呟くと、ローレンはユリアネの隣に立ってバルコニーの柵をつかんだ。
「まるで、あの別荘のようだって?」
 目を細めたローレンを見上げて、ユリアネは頷いた。ローレンの隣にいると、いつも胸が高鳴った。心地よい興奮があった。考えながらまた目を伏せると、ユリアネは口を開いた。
「ジョーイさまとマレーナさまは、ご無事なの?」
「ああ。王宮から追っ手が来る前にハルコランと亡命させた。無事に国外へ出たと知らせがきた所だ」
 ローレンが答えると、ユリアネはよかったと穏やかな表情で答えた。昔はジョーイさまの名を口にするのも辛かった。でも今は。考えて口元に笑みを浮かべ、ユリアネはローレンに向き直った。
「私が身を寄せていた別荘に、ルイゼンが一人で訪ねてきたの。随分、顔色が悪かったわ。無理をしているみたいだった」
「そうか…ルイゼンはハイヴェルの総領息子だ。下手にこちらに協力してくれと頼むこともできない。私自身はルイゼンにも一緒に戦ってもらいたいと思ってるんだが…」
「ローレン、ルイゼンに頼まれたんだけど」
 ローレンの目を真っ直ぐに見つめると、ユリアネはその表情を伺った。
 いくら私でも、こんなことを言い出せばローレンの逆鱗に触れるかもしれない。
 死さえ、あり得るわ。
 でも。ゴクリと唾を飲み込んで、ユリアネは口を開いた。でも、ここまで旅をしてきて更に思った。ローレンが王宮にいないままの今の状態では、この国はよくならない。
「アントニアさまと和解をしてほしいの。王宮に戻って。そして、これまで通りアントニアさまの補佐として、この国のために力を尽くしてほしい」
 その言葉に、ローレンは目を見開いてユリアネを見つめた。それは、ルイゼンが? ローレンが尋ねると、ユリアネは少し考えてから答えた。
「ルイゼンが言っていたことだけど、私も彼に賛成だわ。いえ、私の方が強くそう思っているかもしれない。女だもの…愛する人が戦って死んでいくのを見るのは辛い。できることなら内戦を避けて、あなたには王宮へ戻ってほしい」
 最後の方は目を伏せて、呟くように言ったユリアネの長い髪を眺めると、ローレンはバルコニーに置いてあった椅子を引き寄せてそこに座った。ローレン? ユリアネが名を呼ぶと、ローレンは珍しく自嘲的に笑った。
「私はこれまで、国のため、みんなのためにと思ってずっとやってきたんだ。周囲にも私に王宮へ戻れと言う者はいなかった。でも、ユリアネにそう言われて気づいたんだよ」
 自分の太ももに腕を置いて、前屈みになってローレンは目を閉じた。いつも大義名分のためと思い続けていた。でも。
「今ふと思ったんだよ。私は他人のためにとずっとやってきたけれど、この国を『自分の』理想の形にしたいと考えたことはなかったか。意のままに、というのとは少し違うけれど、自分が思う国の形にしたいというのは、私のエゴではなかったのか」
「ローレン…」
「でもね、ユリアネ」
 身を起こしてユリアネを見上げると、ローレンはユリアネの手を握りしめた。
「私は間違っているとは思わない。私の理想はこの国をできるだけ早く、全ての国民が苦しまずに安心して生きていける形にすることだ。そのためには王制を廃止すべきだと考えている。それは、王宮にいてはできないことだ。協議で王制を廃し共和制へと導いていけるのなら、とっくの昔に実現していただろう。でもそうすることができなかったから、私は今ここにいるんだ」
「…」
「そのために犠牲を払うことが当然だとは、言えない。けれど一緒に戦ってくれている人たちを裏切ることはできない。ユリアネ、人は時には命を賭して戦わなければならない時があると私は考えている。今を逃せば、死はやがてこの国の多くを飲み込んでしまうだろう」
 ギュッとユリアネの手を握って、ローレンはその手をそっと離した。
 分かってくれるだろうか。君には分かってほしい。
 多分、さよならの時が近づいているから、君には私の思いを理解してほしい。
 ユリアネ、君は私の最後の恋人だから。
 ローレンの言葉を聞いた後、ユリアネはしばらく黙り込んでいた。その目を正面から見つめていたローレンに、ユリアネは顔を上げて答えた。
「ローレン、私…あなたが考えているよりもずっと弱い人間なの。本当はこの国の人たちがどうなろうと、どうでもいいの。あなたやエウリルさまや、私にとって大切な人たちに死んでほしくない」
 ローレンの顔立ちは以前と同じだったけれど、表情は以前とは違っていた。あなたはもう以前とは違う。私が変わったように、あなたももうあなただけの道を進みはじめているのね。
 一緒にいて笑いあった日々を思い出した。あなたを愛してた。あなたのためなら死ねると思っていた。ローレン、あなたと共に生きたかったけれど。
「でも、あなたにとってはこの国の人たち全てが大切なのね。私があなたを大切に思うように、まだ出会ったことのない人たちの一人一人まで、大切に思っているんだわ」
 それなら、分かる。目尻を手の甲で拭うと、ユリアネは震える唇で笑ってみせた。ルイゼンには私から手紙を書こう。ローレンの言葉にただ黙って頷いて、ユリアネは目を細めてローレンを見つめた。

(c)渡辺キリ