アストラウル戦記

 晩餐会が終わる前に、王太子アントニアはサロンを離れ自室へ向かっていた。穏やかな笑みを浮かべたまま、貴族の数人と話しながら歩いているアントニアの後を追いかけると、ルイゼンは失礼ながらと言った。
「少しよろしいでしょうか。この間のお話の続きを」
「構わないよ。今夜は楽しかった、みんなありがとう」
「ルイゼンさまと、どのようなお話ですか? 我々には秘密にしたいことでも?」
 そばにいた貴族の一人が尋ねると、アントニアは目を細めて笑みを見せながら答えた。
「この間、チェスの相手をしてもらった時に、ルイゼンが不思議な手を使って勝ったので方法を教えてくれと頼んだんだよ。皆に聞かれては、私がその方法を使って勝つことができなくなってしまうだろう」
 アントニアの言葉に、周囲の貴族たちが細波のように笑った。それでは、またお目にかかりましょう。そう言って貴族たちは次々と離れていった。最後の貴族が背を向けると、アントニアは小姓と衛兵に離れるよう促してからルイゼンと歩き出した。
「アントニアさま、ありがとうございます」
「嫉妬深い貴族は多い。君も気をつけたまえ」
 アントニアが表情を消して言うと、ルイゼンははいと答えて目を伏せた。周囲に視線を走らせると、ルイゼンは小声で話しはじめた。
「アルゼリオの件ですが」
「いい返事かな」
「…いえ。やはり父を裏切ることはできません」
 小さな声で答えると、ルイゼンはアントニアの横顔を伺った。その表情はいつもの通り穏やかで、ルイゼンがホッとすると、アントニアはチラリとルイゼンへ視線を向けて冷ややかに口を開いた。
「そうか。王太子である私には、衛兵とは違って近衛兵に対する直接的な権限がない。その私よりもハイヴェル卿に配慮をするというのは、当然のことだな」
「いえ、決してそのようなことは。しかし父には報告せずに、反王宮派貴族のリストを渡すというのは」
「そう言っているのと同じことだろう」
 その口調には怒りも苛立ちもなく、それが却って不気味に感じた。ルイゼンが更に言葉を言い募ろうとすると、アントニアはまあいいと遮って立ち止まった。
「ルイゼン、それでは君の頼みも聞けないな」
「…アントニアさま」
「君が調べたものと同等のものは、既にこちらでも手を尽くして調べ挙げてあるんだよ。それでも君のリストが欲しかったのは、より確実に裏を取りたかっただけのことだ。ローレンやエウリルがプティにいることも分かっている。もし二人を逮捕するなら、プティを重点的に調べたまえ」
 おやすみ、ルイゼン。目元に笑みを浮かべて言うと、アントニアは足を早めた。ありがとうございます、アントニアさま。近衛式の敬礼を返すと、ルイゼンはその姿が消えるまで、アントニアをその場に立って見送った。
 ローレンさまとエウリルさまが、プティにいる。
 そのことをアントニアさまがご存じということは、衛兵軍がプティへ向かっているかもしれないということだ。
 ユリアネは間に合うだろうか。父上にご報告申し上げた方がいいのか。しかし、父上はローレンさまを逮捕すると仰っている。父上はきっと報告を受ければ、プティへ王立軍を差し向けるだろう。
 エウリルさまの一件以来、私は…見張られている。
「ルイゼン」
 ふいに声が王宮の廊下に響いた。ドキッとしてルイゼンが振り向くと、燭台を持ったパヴォルムが立っていた。探したぞ。そう言って近づくと、パヴォルムは燭台をかざしてルイゼンを見た。
「顔色がよくないようだが、大丈夫か。急にアントニアさまを追っていったから心配したぞ」
 酒には酔っているものの、しっかりとした口調でパヴォルムが言った。大丈夫だ、ありがとう。戸惑いながらもその色を見せずにルイゼンが答えると、パヴォルムはルイゼンの表情を見て言葉を続けた。
「ルイゼン、今度、私の屋敷で食事を。どうかな」
「え、ええ。ぜひご一緒に」
 ゆっくりと元来た方へ歩き出しながら、ルイゼンがパヴォルムを見上げて答えた。今夜はもう帰った方がいい。そう言ってルイゼンの背にそっと手を添えると、パヴォルムは燭台で足下を明るく照らした。

(c)渡辺キリ