眠りについてしばらくの間、どこか気がざわついていた。浅い眠りと目覚めを繰り返して、フリレーテは部屋に入ってきた蝋燭の火に気づいて身を起こした。
「セシル?」
フリレーテが名を呼ぶと、セシルは燭台を持ったままベッドのそばで膝をついてフリレーテに向かって頭を垂れた。
「アントニアさまがお呼びでございます。お召し替えを」
「こんな時間に…」
そう呟いて、それからフリレーテは怪訝そうに立ち上がり、セシルと共に部屋に入ってきた侍女二人に着替えさせられて廊下に出た。晩餐会の後、王宮に留まって酒を飲む貴族たちがいるのか、廊下にはわずかに明かりがもれていた。
「こちらにございます」
セシルがフリレーテの足下を蝋燭の火で照らしていた。お前に私を迎えに来させるなんて。フリレーテが小さな声で囁くと、セシルはいつものように硬い表情で答えた。
「内密に、あなたさまにご相談があるとのことでございます」
「相談?」
「アントニアさまからお話がございます」
こんな日に。欠伸をかみ殺して、フリレーテはセシルが照らしたアントニアの部屋のドアを見上げた。脇にはいつものように、衛兵が二人立っていた。アントニアさま、お呼びと伺いましたが。侍女が開けたドアから中へ入ると、フリレーテはそう言いながら部屋の中を眺めた。
アントニアは自室で、いつものようにくつろいだ格好で本を読んでいた。フリレーテに気づいて顔を上げると、アントニアは立ち上がってうっすらと笑みを浮かべた。
「もう寝ていたの。何だか寝ぼけた顔だ」
「疲れていたので」
むすっとした表情でフリレーテが言うと、アントニアはひそやかに声を上げて笑った。ここで寝ていくか。セシルが用意した椅子をいいよと柔らかく断って、アントニアはゴブラン織りの美しいソファに腰掛けてフリレーテにも勧めた。
「王太子の膝によだれを垂らして罰されるぐらいなら、一人で寝た方がマシです」
「憎まれ口を叩いてないで、座りなさい。疲れてるんだろう」
アントニアが言うと同時に、セシルや他の侍女たちが静かに下がっていった。なぜ今さら。それとも、ただ本当に話を? フリレーテが警戒しながらアントニアの隣に座ると、アントニアは足を組んでソファに置かれたクッションに腕をかけた。
「プティでの騒動、てっきり君の方から言ってくるかと思って待っていたのに」
その話か。今夜、シャンドランが現れたので確かめておきたくなったか。足を組んで肘置きに頬杖をつき、フリレーテはアントニアをジッと見つめた。
「アントニアさまのお手を煩わせるほどのことではなかったので」
「君は損な性分だな。君の立場にいれば、他の貴族たちなら私に何を頼もうか、いかに常に身を守ってもらおうか頭を働かせそうだけど」
「アントニアさまに守ってもらわずとも、私は今またこうして王宮にいるではありませんか」
フリレーテが答えると、アントニアは一瞬呆気にとられ、それから声を上げて笑った。本当だ。そう言ってフリレーテの華奢な手を取ると、それを軽く握ってアントニアは目を細めた。
「お母さまはどうやら君を亡き者にしようと考えているようだ。私と君が愛人関係にあると思い込んでいるようだよ。どうする? このままだと君は不本意な理由で殺されてしまいそうだが」
「王妃の誤解を解いていただけるよう頼めば、満足なのですか」
フリレーテが言うと、アントニアはソファの背にもたれて呟いた。
「本当に私の愛人になれば、不本意な理由とはならないが」
もしアントニアを受け入れれば。
オルスナへ攻め入らせることを、寝物語に囁くことができる。
そして、アストラウルの王の愛人としてオルスナをこの手にできる。
ルイカはずっと以前から、それを望んでいる。
アントニアの呼吸も、手の感触も肌に感じていた。アリアドネラのじいさんに、フィルベントに、そしてグンナに対した時には簡単だったことが、なぜこの男にはできない。
目を伏せて、フリレーテは視線を上げたアントニアから目をそらして答えた。
「アントニアさまは私のことなどすぐに飽きるでしょう。他の愛人たちと同じように。それで本当に殺されては、割に合いません」
「飽きるかどうか、試してみなければ分からないだろうに」
フリレーテから手を離すと、アントニアはまたソファにもたれて足を組んだ。ホッとしてから、そんな自分にドキッとしてフリレーテはゆっくりとそれを悟られないように手を戻した。愛人となろうがなるまいが、王宮へ戻り王となるアントニアにオルスナ攻略を進言する。それが俺の目的だったはずだ。
「あーあ、フィルベントには抱かせて私には冷たい態度か。普通、逆だろうに。戴冠式の日が決まっても、喜んでいるのは貴族たちだけで世相はあまりよくはない。金の算段で大臣たちは息切れ状態だ。フリレーテ、君一人ぐらい私に優しくしてくれたって、バチは当たらないだろう」
「アントニアさまに優しい人間はごまんといるでしょう。アントニアさま」
ソファの上できちんと座り直すと、フリレーテはアントニアに向き直った。ソファの背に肘を乗せて頬杖をつくと、アントニアはまたいつもの穏やかな表情で答えた。
「何?」
「金がないと仰せなら」
「貿易でもしろと言うのか? もう近隣諸国とは…」
「国を広げればよいのです」
真顔で言ったフリレーテに、アントニアは黙ったまま視線を向けた。数秒、互いの顔を見合わせると、アントニアは組んでいた膝を抱えて口を開いた。
「君ならどこへ攻める?」
アントニアが動揺もなくあっさりと答えると、フリレーテは怪訝そうにアントニアの表情を伺った。冗談だとでも思っているのか。考えながら軽く息を吐いて、フリレーテは答えた。
「オルスナへ」
「なるほど、あの経済力は魅力的だな。それなら君が貴族院で提唱したまえ。メンバーになれるよう私が推薦しよう」
驚いてフリレーテが思わず腰を浮かすと、アントニアはおかしげに目を細めて言葉を続けた。
「君が言い出したのに、君が驚いてどうする」
「しかし、国が戦火に飲まれるのかもしれないのですよ」
「それが一番有効な手段なら、王として取るべき道は一つだ。フリレーテ、それに我が国はもうオルスナとの繋がりが薄れている。エンナ王妃は死に、エウリルは『瀕死の状態』なのだから」
アントニアの目は涼やかで美しく、そこには高揚も興奮も、国に対する慈愛すらなかった。この男は。立ち上がってアントニアを見下ろすと、フリレーテはその瞳から目をそらすこともできずに黙り込んだ。
この男は…退屈に絶望しきっている…?
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