アストラウル戦記

 考えることは山ほどあった。それでも気分転換にと侍女たちや父親からも勧められ、馬車で自邸を出た時にはもう月が高く昇っていた。
「遅くなって申し訳ない」
 ルイゼンが頭を下げると、パヴォルムは大広間で既にくつろいでいた。今夜はヴァンクエル卿もご一緒か。もう引退してパヴォルムに跡を引き継いだヴァンクエル前伯爵は、今もパヴォルムとその妻子と共にヴァンクエル邸に住んでいて、その豊富な知識と経験から、時々、パヴォルムや王立軍にも助言をしていた。
「今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
「ルイゼン、久しぶりだな。随分立派になった。お父上も喜んでおられることだろう」
 謹厳さが表れた顔立ちながらも、どこか柔和な微笑みを浮かべてヴァンクエル卿が椅子に座ったまま右手を出した。その皺の増えた右手をしっかりと両手で包むと、ルイゼンはありがとうございますとにこやかに答えた。
 晩餐はパヴォルムの従兄も交えて四人で進んだ。話は思った以上に弾んで、デザートを食べ終わるとヴァンクエル卿は召し使いに支えられて立ち上がり、後は若い者たちだけでゆっくり話してくれと言って自室へ戻っていった。ヴァンクエル卿はお元気がないようだが。サロンへ移動しながらルイゼンが尋ねると、パヴォルムは苦笑して答えた。
「もう年なのさ。この間、年甲斐もなく猟に出て、次の日は腰を痛めたと言って一晩中ベッドの中だ」
「でも、まだまだしっかりしておられるじゃないか。もっと別のお話もしたかったな。夫人ともずっとお会いしていないし、楽しみにしていたのに」
「ご懐妊で実家に戻られているんじゃな。まあ、いいじゃないか。また子が産まれたら、昼間に遊びに来ればいい」
 パヴォルムの従兄が言うと、ルイゼンはそれもそうだなと答えた。
 サロンで酒を飲みながら他愛のない話をすると、少し気が晴れたような気がした。勧められるままに飲んで、気づくとパヴォルムの従兄はいなくなっていた。今夜は泊まっていかれるそうだ。靄の向こうでパヴォルムが侍従に部屋を用意するよう命じている声がした。ソファに座り込んでいたルイゼンは、慌ててふらふらと立ち上がった。
「いや、もう帰るよ。楽しかった、ありがとう」
「足がふらついているじゃないか。君の屋敷へはもう知らせをやったし、泊まっていきたまえ」
「でも、ご迷惑では…」
 パヴォルムの腕に支えられて、ルイゼンはパヴォルムの肩をつかんだ。気分は悪くなかったが、眠気に襲われてまぶたが重かった。無理するな。そう言われてパヴォルムを見上げると、ルイゼンはそれでは一晩だけと答えた。
「疲れているんじゃないか」
 ルイゼンのために用意された部屋は美しく、真ん中に置かれたテーブルの上には水を張った器が見えた。そこにはいくつも薔薇の花が浮かべられていて、落とした照明の中でふわりと浮かぶ花を眺めると、ルイゼンはパヴォルムに抱えられてベッドに寝転んだ。
「すまない…」
 ルイゼンが呟くと、パヴォルムは微笑んだ。後は私が見るから。そう言って侍女を下げると、パヴォルムはルイゼンの服の襟元を緩めた。
「もっと君の心の内を見せてくれ。これまでもハイヴェルのために働いてきた。これから王立軍を動かしていく君の一番そばで、ずっと支え続けていくのは私だ。ルイゼン…」
 眠りかけたルイゼンの耳元でそう囁くと、パヴォルムはベッドに足をかけた。ギシリとベッドが音を立てて、その温かな手の感触を頬に感じてルイゼンは目を閉じた。懐かしい。これは何だ…エウリルさま、あなたの手。
 子供の頃に一緒に遊んだエウリルの手は、温かくて少し湿っていた。薄暗い離宮の庭の茂みで、手を繋いで二人で隠れた。あの時のまま、どうして私たちは留まることができなかったんだろう。私は今もエウリルさまを守るために生きているのに。
「ルイゼン」
 ふいに耳元でパヴォルムの声がして、ルイゼンは目を開いた。頬にパヴォルムの唇が触れて、バッと身を起こして目を見開くと、ルイゼンは息を乱して驚いたようにパヴォルムを見た。
「ルイゼン、愛している」
「な…」
 頭が混乱して、ルイゼンはベッドの上で体を強張らせた。その腕をつかんでパヴォルムがルイゼンの体を引き寄せようとすると、ルイゼンは逃げようと腕を引いた。ルイゼン、待ってくれ。後ろからルイゼンを長い腕で抱きしめ、焦ったように囁いてパヴォルムは言葉を続けた。
「君がローレンさまたちのことで心を痛めていることは分かってる。そのことで、アントニアさまと行き違いがあったんだろう。調べればすぐに分かることだ」
「パヴォルム…あなたは」
「ルイゼン、力になりたいんだ。君を支えたい。私は取るに足りない人間かもしれないが、少しぐらいは君を助けられる。もう一人で悩まなくてもいいんだ」
 懸命に言い募るパヴォルムの言葉に、ルイゼンはキュッと唇を噛んで涙を堪えた。自分を抱く腕の力が、理性と反して心地よかった。このまま身を委ねれば楽になれる。そう囁く誰かが心の中にいた。
 でも。
 パヴォルムを夢中で押し返して、ルイゼンはその頬を払った。酔って力の入らない体でパヴォルムから離れようとすると、そんなルイゼンの手をつかんでパヴォルムは上から覆いかぶさった。よせ! ルイゼンが怒鳴ると、パヴォルムはルイゼンの服を脱がせながら囁いた。
「お願いだ、ルイゼン。俺の気持ちを受け止めてくれ。君が好きだ。ずっと以前から好きだったんだ」
「そんなこと…あなたには婚儀を上げたばかりの夫人がいるじゃないか! その夫人だって懐妊中で…っ」
「あの婚儀は、父が勝手に決めたんだ。その頃から俺は君のことが好きだったんだ。分かってくれ」
 パヴォルムの手を遮ると、ルイゼンは懸命にパヴォルムの体の下から逃れようともがいた。その目は怒りに満ちて、普段の穏やかなルイゼンからは想像もできないほど激しくパヴォルムをにらみつけていた。目が合うと、背筋がゾクッとしてパヴォルムはルイゼンの両肩をベッドに押しつけた。
 欲しい。
 ルイゼンを手に入れれば、この国の武官として意のままに動くことができる。そう思っていたけれど…それだけじゃない。
「っ!」
 首筋を舐められ、顔を背けてルイゼンはギュッと目を閉じた。首筋から背中にかけて、思いもよらない快楽が走った。ルイゼン、本気なんだ。耳元で囁かれ、パヴォルムの温かい手がシャツの隙間から入り込むと、ルイゼンはさっきよりも弱くなった力を振り絞ってパヴォルムの腕をつかんだ。
「…やめてくれ、頼む」
 いける。
 軽く息を乱したルイゼンをチラリと見て、パヴォルムはルイゼンの足を抱えた。その腰に自分の固くなったそれを押しつけると、涙を滲ませてシーツをつかんだルイゼンの手を握りしめた。ルイゼン。甘く名を囁いて、パヴォルムはルイゼンのかすかに開いた唇に自分の唇を重ねた。シーツが擦れるかすかな衣擦れの音と、乱れた呼吸が部屋に密やかに広がっていった。

(c)渡辺キリ