アストラウル戦記

「早かったね。集会どうだった?」
「予想以上に盛り上がっててビビった」
 ガスクが言うと、ナヴィが声を上げて笑った。ナヴィの声は低くもなく高くもなく綺麗で、聞いていると心地よかった。ナヴィの短い髪が揺れるのを眺めて、それからガスクはナヴィの手を引いて低木の間をすり抜けるように歩き出した。
「ダッタンにいたら、こんな風に世界が動いていることは分からなかったかもな。集会ではヤソンが紹介してくれたせいもあると思うけど、アスティたちは俺に好意的だったよ。ダッタンじゃあり得ない反応だった。俺たちがヤソンから請われて市警団を助けると聞いて、みんな喜んでた」
「ガスクはそれでいいの? 納得できた?」
「まあな…俺たちがこの国で生きていくには、アスティと共存するしか方法はない。今は反対してる奴らも、ここに来れば分かってくれるんじゃないかって希望が持てた、かな」
 そっか。ナヴィがガスクの手を握り返すと、ガスクは振り向いて口元に笑みを浮かべた。座ろう。そう言って木陰へ視線を向け、ガスクはナヴィの手を引いたまま無造作にそこへ腰を下ろした。
 スラナング男爵の屋敷の敷地は王宮や他の貴族に比べると小さく、屋敷の佇まいもどこか簡素だった。離宮を思い出すな。何となく考えながらナヴィが膝を伸ばして庭を眺めていると、ガスクは腰に下げていた小さな袋から織りかけた布を取り出した。
「何?」
「あいつらに通信。俺はしばらくダッタンに戻れそうにない。ヤソンに頼んで使者を出してもらってもいいが、伝言じゃあいつら信用しそうにないからな」
「それで何が書いてあるか分かるの?」
 物珍しそうにナヴィがガスクの手元を見ると、ガスクは色のついた太い糸を器用に折り返して長い布を編みはじめた。スーバルンに伝わる古い方法なんだ。そう言って、ガスクは色とりどりの糸を編み続けながら話した。
「色とその並びで、文字の代わりに伝えるんだ。ほら、ここは俺の名だ。今はこの方法も知ってる奴は少なくなったけど…グステ村じゃ子供の頃からこうして遊んでたから、ナッツ=マーラにはちゃんと伝わる」
 そう言って、ガスクは布の一行目に当たる部分を指差した。そこは緑色と黄色の鮮やかな糸が不規則に織られていた。面白いね。よく動くガスクの手を見ながらナヴィが言うと、ガスクはまあなと答えた。
「お前はこういうの知らないのか。半分はオルスナ人だろ」
 からかうようにガスクが言うと、ナヴィは拗ねたように唇を尖らせていじわるだなと言い返した。何が。ニヤニヤと笑ってガスクが手を止めると、ナヴィは自分の膝を抱えてガスクを見上げた。
「一応、王宮ではオルスナの歴史を学んだよ。でも、僕が他に知っているのはユリアネっていうオルスナから来た侍女に教えてもらった武術だけだ。ガスクだって最初、僕をアストラウル人だと思ってたじゃないか」
「間違いじゃないだろ。親父は…」
 言いかけて、ガスクは黙った。噂通りなら王は今、外に出られないほど衰弱しているはずだ。それをナヴィは知っているのか。少し伺うようにガスクがナヴィの横顔を見ると、ナヴィは目を伏せて足を伸ばした。
「お父さまは立派な方だよ。僕はお父さまの息子であることを誇りに思ってる。僕が純粋なオルスナ人ならよかったとか、アストラウル人ならよかったと思ったことがないのは、お父さまが僕とお母さまを心の底から愛して下さったからだ」
 もちろん、他のみんなもだけど。そう呟いたナヴィの髪に、柔らかな風が吹いた。ナヴィの前髪がさらりと揺れて、ガスクはナヴィの頭を大きな手でくしゃりとなでた。
「お前、ここにいるのが嫌か」
 ガスクの声は優しかった。その優しさが堪らなくて、ナヴィはガスクから目をそらして目を伏せた。嫌とか、そういうこと言えるような状況じゃないだろ。そう答えてナヴィはガスクを見上げた。
「ローレンが落ち着いたら、僕も自分の用を済ませてくるよ。アサガも言ってたけど、ローレンの手助けをしてあげたい。ガスクから見ても疲れてるって感じだろ。僕にできることは余りないけど…」
 最後は呟くようにナヴィが言うと、ガスクはそっかと低い声で答えてナヴィの頭をポンポンとなでた。じゃあ、しばらくは一緒にいられるな。ついと指でナヴィの鼻をついてガスクが言うと、ナヴィは首筋まで赤くなった。
「何だよ」
 その反応に慌てたようにガスクが手を離すと、ナヴィは焦ってまた目をそらした。
「だって、ガスクがそういうこと言うとは思ってなかったから」
「何だ、それ」
 呆れたように、少し怒ったように言い捨てて、それからガスクはふいに身を屈めてナヴィの唇に軽くキスをした。ビクッと震えてからガスクから離れて、ナヴィは面白がってるだろと言って顔をしかめた。そんなことねえよ。立てた膝に頬杖をついてニヤリと笑うと、ガスクはジッとナヴィの赤くなった顔を見つめた。
「お前って可愛いなと思ってるだけ」
「気持ち悪い。ガスクらしくない」
「お前な」
 ガスクの手の届かない所まで離れると、ナヴィは膝を抱えてガスクを眺めた。勝手にしろよ。怒っている風でもなくそう言うと、ガスクはまた手に持っていた布を手早く織りはじめた。

(c)渡辺キリ