アストラウル戦記

「僕はオルスナには行けない」
「エウリルさま!」
 驚いたようにユリアネが声を上げた。エウリル。名を呼んだローレンに頷いてみせると、ナヴィは両手をギュッと組んで周囲に立つ男たちをおずおずと見回した。
「ここへ来るまでに見たアストラウルは、僕が考えていたよりもずっと混乱して疲弊しているように見えた。あちこちで争いが起こったり、民衆の心も王宮から離れている。それなのに今、僕がオルスナに助けを求めたら、オルスナはこの国に対して挙兵するかもしれない」
「…それはあり得ますね。私がもし王なら、自分の娘が殺されたとあれば」
「違う。そうじゃない」
 言いかけたエカフィの言葉を遮ると、ナヴィは厳しい表情で話を続けた。
「挙兵の口実を与えるかもしれないと言ってるんだ。戦いは正義をかざした方が有利だし、人心をまとめやすい。祖父王はバラバラだったオルスナを一代で一つの大国にまとめ上げた名君だ。アストラウルは今、オルスナに少しでも弱みを見せる訳にはいかないんだ」
 ナヴィが言うと、シンと静まり返った部屋の中でふいにガスクが口を開いた。
「まあ、こいつの言う通りかもな。それに、オルスナや周辺国の問題以外にも、こいつを担ぎ出すのは得策とは言えないんじゃないか」
「なぜだ」
 トアルが声を荒げて尋ね返すと、ガスクは両腕を組み直してソファの背にもたれたまま低い声で答えた。
「所詮、他人事だからだよ。初めは義憤で同調していても、一度形勢が危うくなれば、王宮(みうち)の問題は自分らでやれと放り出されかねない。別に揶揄するつもりはないが、俺は少数民族の立場から、そんなアスティたちをゴマンと見てきたんだ」
 トアルがグッと言葉を詰まらせると、ガスクはいつもと同じ表情で淡々と続けた。
「それでなくてもローレンが反乱軍の中心となっている今の状況では、いざ苦境に立たされれば身内の喧嘩ととらえられかねないんだ。俺たちはどう頑張ったって烏合の衆だ。本質を見誤れば、簡単につぶされるぜ」
 しばらく黙り込んで、それからヤソンがふうと息をついた。固い表情をしていた他のリーダーたちが肩の力を抜いた。確かに、ガスクの言うことも一理あるな。そう言って口元に笑みを浮かべると、ヤソンはエカフィに視線を戻した。
「どちらにせよ、俺たちが義憤以外にも各々の事情でこの戦いに参加していることは事実だ。それぞれの思惑は、この際、胸に収めようじゃないか。武器が揃い次第、王太子が即位する前に挙兵ということになるだろう。みんな、そのつもりで今日は戻ってくれ」
「分かった。知らせはいつもの通りに」
「俺たちはいつでも集まれるんだ。頼むぜ、ヤソン」
 口々にそう言って、男たちは部屋を出ていった。最後にヤソンが部屋のドアノブをつかんで、それから振り向いてニヤリと笑った。
「言うときゃ言うな、お前も。その調子で頼む」
「同じこと思ってるなら、お前が言えよ。それに、ウチの奴らは俺の一万倍はキツイぜ。お前らに耐えられるのかよ」
 横目でヤソンを見ながらガスクが答えると、ヤソンは笑いながら部屋を出ていった。全く。呆れたようにガスクがソファに座り直すと、エカフィはローレンに向き直って手に持っていた封筒を書斎の机の上に置いた。
「ローレンさま、イルオマの件ですが」
 ドキッとしてナヴィがエカフィを見ると、ローレンは封筒を取り上げてからまた書斎の椅子に座って尋ねた。
「ああ、どうだった?」
「間諜ではありませんでした。ダッタンの駐屯地でイルオマが騒ぎを起こした記録が残っていましたし、除隊届けも既に受理されています。これは私独自のルートを使って調べたことですので、カモフラージュされていることはないと思います。彼が持ってきた、王宮派へと寝返ったという貴族たちのリストも本物でした」
「それだけは間違いであってほしかったな」
 封筒を開けて中に入っていた貴族のリストにざっと目を通し、苦笑しながらローレンが答えると、エカフィは失礼と言って部屋を出ていった。よかったな、ユリアネ。椅子の背にもたれてローレンが言うと、ユリアネは慌てたように答えた。
「ええ、あなたのために」
「ははは、無理しなくてもいいんだよ、ユリアネ。彼が間諜なら、君がイルオマをどうにかしなきゃいけなくなる。私もユリアネにはこれ以上辛い思いをしてほしくない」
 目を細め、優しげな表情でローレンが言うと、そばに立っていたユリアネはぎこちなく笑みを返した。少しホッとしているようにも見えた。イルオマに知らせてきてもいいでしょう? そう言ってナヴィが部屋のドアに近寄ると、ガスクも立ち上がって俺も行こうと声をかけた。
「あ、そうだ」
 そう言って振り向くと、ナヴィはガスクの体を避けてひょいと顔を覗かせた。
「ローレン、イルオマとユリアネがここにいる間に、僕はノヴァン先生の所へ行こうと思ってるんだ。スラナング男爵に頼んで、ここにいることは伏せて先生には知らせをやってある。できれば早いうちに、明日にでも行きたいんだ」
「明日!? お前、そりゃ無茶だろ」
 驚いてガスクが言うと、ローレンは険しい表情でノヴァン伯爵かと呟いた。
「彼は一応、中立の立場を取っているが、危険がないとは言えない。本当ならエウリル、お前にはしばらくここにいてほしいんだけどな」
「大丈夫だよ。先生は」
 ナヴィが言うと、ユリアネも心配げにでも…と呟いた。ユリアネも先生のことはよく知ってるだろ。ナヴィが言葉を続けると、ユリアネは自分の胸を押さえて言った。
「私も一緒に。せめて護衛を」
「ダメだよ。イルオマが間諜じゃないって分かったとは言っても、まだ何があるか分からないんだ。ユリアネにはローレンを助けてもらいたい」
「それなら俺がついていこう。俺が一番ヒマだしな。ここまで『守って』もらったお返しに」
 ニヤリと笑いながらガスクが言うと、ナヴィは赤くなってそれもダメだよと答えた。
「いつ挙兵するかも分からないのに。グウィナンたちもこちらに向かってるんだろ。彼らがプティに着いた時にガスクがいなかったら、グウィナンたちが怒るよ」
「あいつらがプティに着くまでがヒマだって言ってんだ。それにお前、スーバルンのために行ってくれるんだろ。それなのに俺がいなくてどうすんだ」
 怒ったようにガスクが言うと、ナヴィはでも…と呟いた。スーバルンのために? ローレンが尋ねると、ナヴィの代わりにガスクが答えた。
「スーバルンに教育を、と。ノヴァンってヤツなら頼みを聞いてくれそうだからって」
「そうか…でも、それは今じゃなくても、この戦いが終わってからでもいいんじゃないのか」
 厳しい表情でローレンがナヴィに尋ねると、ナヴィも眉をひそめて首を横に振った。
「ダメなんだ。今でも遅いぐらいなんだ。彼らに今必要なのは、権利と教育だ。権利は戦って勝ち取ることができるけど、教育には時間がかかる。彼らが自分たちの力で生活できるように、今すぐその術を教える体制を外側からでも作っておくべきなんだ」
「それをエウリル、お前が? お前が考えたのか」
 ナヴィが頷いてローレンを見ると、ローレンは小さく息をついてから答えた。
「分かった。行ってくるといい。でも、お前が王宮兵に追われていることは間違いないんだ。気をつけて、必ずここに戻ってくるんだ。いいね」
 ローレンの言葉にしっかりと頷くと、ナヴィはガスクと共に部屋を出ていった。
 書斎に残されると、ローレンはぐったりとした様子で椅子の背にもたれた。ローレン、大丈夫? ユリアネが心配げに尋ねると、ローレンは笑みを見せて、そばに立っていたユリアネを見上げた。
「大丈夫だ。エウリルが自分で考えたなんて、何だか信じられないな。離れていた間に、エウリルは私が考えていたよりもずっと大人になってしまったみたいだ」
「…ローレン」
「ガスクが一緒なら、少しは安心できるかな。それにノヴァン伯爵はエウリルのことを可愛がってくれていた。きっと悪いようにはしないだろう」
 そう言って、ローレンは額を押さえて目を閉じた。
 アントニアが王になる。
 その前に。考えながら目を開くと、ユリアネがローレンの顔を覗き込んでいた。いよいよなのね。ユリアネが呟くと、ローレンはニコリと笑ってみせた。
「ユリアネ、君はオルスナへ帰った方がいい。エウリルの言う通りだ。今、エウリルがオルスナに帰れば、オルスナ三世は恐らくアストラウルに攻め入るだろう。でも、君一人なら大丈夫…」
「バカ言わないで、ローレン。エウリルさまを危険と分かっている場所にみすみす置いては行けないわ。私はここで、エウリルさまに従います」
 ユリアネが強い口調で答えると、ローレンは苦笑した。君には幸せになってもらいたいと思っているのに、ここに残るんだね。そう言ったローレンに、ユリアネは頷いた。
「ありがとう、ローレン。でも、私は私の幸せを自分で決めたいの。後悔しながら生きていきたくないから」
「それなら、決して私より先に死なないと約束してくれ。でないと私が後悔しなきゃいけなくなる。無理にでもオルスナへ行かせるんだったと思わせないでくれ」
 ローレンがそう言ってユリアネを見上げると、ユリアネは笑いながら頷いた。
「私の腕は、あなたが一番よく知ってるでしょ。あなたが唯一投げ飛ばされた相手は、私なのよ」
 そう言ったユリアネに、ローレンは声を上げておかしそうに笑った。

(c)渡辺キリ