アストラウル戦記

 貴族院から王太子即位が決まったという知らせを受けて、ルイゼンはアストリィにある自宅から馬車で王宮へと向かっていた。
 パヴォルムとの一件以来、以前にも増して固い表情で任務だけを黙々と遂行する日々を送っていたルイゼンは、王宮へと向かう馬車の中で、いつも身につけている飾剣をギュッと握りしめた。アントニアさまが王となったら、ローレンさまやエウリルさまはどうなる。
 後戻りできなくなってしまう。
「ルイゼンさま、王宮でございます」
 馬車が止まると、御者が馬車の扉を開けてルイゼンに声をかけた。ありがとう。心では焦りながらも上級貴族の常としてゆったりとした口調で言うと、ルイゼンは一人王宮へと入っていった。
「ルイゼン、聞いたのか」
 ちょうど前から、大広間に続く階段を数人の部下と共に降りてきたハイヴェル卿が、ルイゼンに気づいて声をかけた。その中にはパヴォルムがいて、ルイゼンはピクリと眉を動かしてから平然とした表情で答えた。
「はい、さっき。父上、アントニアさまはどちらに」
「今はアリアドネラ伯爵と共に書斎におられる。アリアドネラ伯爵は貴族院の承認を受け、新たに貴族院の一員となられた。ルイゼンもそのつもりで、アリアドネラ伯爵に相対するように」
「…分かりました」
「後で私の部屋に来てくれ。カーチェで王立軍と民間人との衝突があったそうだ。最近、カーチェ周辺で不穏な動きがあると知らせも受けている。そのことで話がある」
「かしこまりました」
 王立軍式の敬礼をして、ルイゼンは道を開けた。ハイヴェル卿が階段を降りていくのを見守っていると、パヴォルムと目が合った。あの夜とは違う冷ややかな表情のパヴォルムから目をそらすと、ルイゼンは王宮内にある王立軍の司令部に向かった。
 パヴォルムの手の感触が、まだ肌に残っている。
 忘れてしまいたい。消し去ってしまいたいのに、なぜ。
 パヴォルムに対しては、憎しみに近い嫌悪感を抱いていた。職務や立場というブレーキがなければ、殺していたかもしれない。自分でも思ってもみなかった衝動が体の芯で渦巻いていた。
 けれど今、私が王宮からいなくなれば、ここにいる誰がエウリルさまをお助けできる。
 大きく息を吸って吐き出すと、ルイゼンは何事もなかったように歩いた。ユリアネはもうプティに着いただろうか。ローレンさまから知らせが来れば、今の状況も打開できるかもしれない。考えながら歩いていると、ふいに名を呼ばれてルイゼンは階段を上がりきった所で足を止めた。
「ルイゼンさま、お久しぶりでございます」
 王立軍の中でもプティ市の治安維持を担当する部隊の、軍曹をしている男だった。以前はルイゼンの隊にいたこともあって、アストリィに戻っていたのかとルイゼンが尋ねると、男は苦笑して答えた。
「任務報告でございます。それから、ルイゼンさまにもお話が」
「私に?」
 ルイゼンが不思議そうに尋ねると、軍曹は頷いてルイゼンを促した。王立軍の曹長クラスの人間が使う王宮のサロンにルイゼンを招き入れると、軍曹は数人に敬礼をしながらバルコニーに出た。
「ルイゼンさま、以前、何か変わった噂を聞いたら報告をと仰っていましたね」
「ああ。詳しくは言えないが、何でもいい、噂でもいいからと」
「実は」
 言いかけてバルコニーの向こうに別の軍隊の曹長がいるのに気づくと、軍曹はバルコニーの端まで移動して声を潜めた。
「この話はどうぞご内密に。私の所属する軍に、プティ市のある貴族から護衛の要請が届いたのです。私共の任務はプティ全体の警護ですが、他に王立軍は派遣されておりませんので」
「なぜ一介の貴族が警護を? 何か争いでもあったのか」
「それが…王宮の反逆者と見られる人間が近く自邸を訪れるからと」
「反逆者?」
 驚いてルイゼンが目を見開くと、軍曹は頷いてルイゼンを見つめ返した。
「エウリルさまです。プティ市におられます。このことは私の所属軍ではなく、別部隊が動く手筈になっています。私は早馬でアストリィに急ぎ戻ることができたので、ルイゼンさまのお耳にと」
「ああ…ありがとう。ありがとう。その別働隊というのはどの軍かお前に分かるか」
 ルイゼンが切羽詰まったような表情で尋ねると、軍曹は少しためらい、それから意を決したように答えた。
「ヴァンクエル伯爵の第一部隊です」
 名を聞いて、ルイゼンは息を飲んだ。パヴォルムの部隊。
 あの男に知らせは届いているのか。ひょっとしたら、もう父上にも。
「分かった。お前はこのことは誰にも言わず、いつも通りに任務をこなしてくれ。よく話してくれた」
「ルイゼンさま、私の頭はおかしくなってしまったんでしょうか。なぜ、ご重態のはずのエウリルさまがプティにおられるのです。しかも王宮の反逆者だなんて。私たちの知らない間に、何が起こっているのですか」
「…すまない。今は話せないが、もし何かあればすぐに私に知らせてくれ。私を信じて。いいね」
 ルイゼンが軍曹の両肩をつかんで言い聞かせると、取り乱した軍曹は分かりましたと頷いて敬礼をした。バルコニーを出ていく軍曹の後ろ姿を見ると、少し考えてルイゼンも続くようにしてサロンへ入った。

(c)渡辺キリ