日が暮れかけた頃、王宮を出た小さな馬車は一路北へ向かっていた。
王宮の北には大きな山がそびえていて、それが他国との境界を阻んでいた。その山の裾野に位置する大きな石造りの建物は、アストリィに唯一存在する監獄だった。
そこには、政治犯や重罪を犯した者が収容されていた。陰気で堅牢な建物は、常に王立軍によって守られ閉ざされていた。王宮から来た小さな馬車が門を潜ると、車が石畳を走る大きな音が響いた。
「こちらでございます」
燭台を持った牢番は年老いていて、軍兵がそばに付き添っていた。豪華なマントを肩から羽織った男がその後を着いていくと、牢番は奥にあった鉄格子の南京錠を開けて扉を開いた。
「この先でございます。ご案内を」
「いや、ここまででいい。ここで待っていてくれ」
男はそう言って、中に入った。燭台を渡されて天井まで照らすと、すごいなと呟いてから歩き出した。扉の向こうには牢は一つしかなく、男はコツコツと靴を鳴らしながら牢に近づいた。
牢の中にいた背の高い男は、椅子にきちんと姿勢よく座っていた。
元軍人に相応しく、捕らえられてやつれていても尚、身なりを整えている様に、燭台を持った男が笑みを見せた。近づいてくる明かりにも気づかない様子だけが、異常な精神状態を物語っていた。男が燭台で牢の中を照らし、中にも明かりがついていることに気づくと、手に持っていた燭台を脇にあった小さなテーブルに置いて牢を覗き込んだ。
「グンナ?」
男の声に気づいて、牢の中で一点を見つめていたグンナはハッとしたように顔を上げた。
「フリレーテさま!?」
椅子から立ち上がって鉄格子をつかむと、グンナは目の前のフリレーテの顔を信じられないといった表情で見つめた。なぜフリレーテさまがここに。グンナが檻を握ったフリレーテの手に恐る恐る触れると、フリレーテは笑いながら答えた。
「お前に会いにきた。久しぶりだな、グンナ」
「いけません。このような危ない所へ来られるなど…お一人ですか。すぐにプティへお戻りになって下さい」
「何を言ってるんだよ。俺はどこへでも好きな所へ行くよ。グンナ、お前をもうじき出してやれそうだから、それを教えにきたんだ」
そう言って檻から手を離すと、フリレーテは一歩下がってグンナを見上げた。
「俺を憎んでいるかと思ったよ。お前、俺のせいでこんな所に入れられて、俺を恨んではいないのか」
フリレーテが尋ねると、グンナは心底何を言われているのか分からないといった表情で、首を横に振った。
「そんなことよりも、フリレーテさまがご無事で本当によかった。あの時、捕らえられたのではないかと思って」
「そんなヘマはしない。言ったろ、俺はどこへでも好きな所へ行くと。グンナ、シャンドランが王妃と接見したよ。まだ平民たちは知らないようだが、アストリィの貴族の間ではイモ偽貴族が王妃と対面したと、笑い者になっているようだ」
「それでは…」
「そ。シャンドランと密会していたお前はもうじき無罪放免という訳だ。王妃からの手紙を渡しただけというお前の話が、証明されたんだからな。俺がこないだ貴族院で主張したら、すんなり通ってしまったよ。シャンドランと王妃の取り合わせが、貴族たちには余程ショックだったらしい」
おかしそうにそう言って、フリレーテはまた牢に一歩近づいた。グンナ。檻の向こうからグンナの頬をなでると、フリレーテは目を細めた。
「もう一働きしてくれ。頼めるかな」
「私の身は、あなたのものです。あなたの思うがままに」
愛おしそうにフリレーテの手を右手で覆うと、グンナはフリレーテを見つめて答えた。貴族院の一員となられたのですか。ふいに思いついたようにグンナが尋ねると、フリレーテはグンナの唇を指でなぞりながら答えた。
「王太子の推薦だ。アントニアの即位も決まったよ。一か月後だ。それが済んだら、今度は戦争だ。アントニアの代弁として俺から発案し、貴族院に承認を取る手筈で今、根回しが進んでる」
「戦争…一体」
訳が分からずグンナがフリレーテの顔を見つめると、フリレーテはまるでキスをするようにグンナに唇に指を押しつけてから答えた。
「オルスナだ。あの国をもらう」
フリレーテの目はまるで魔物のように、魅惑に満ちていた。
背筋がゾクッとして、グンナはめまいを感じて思わずフリレーテの手首を強く握りしめた。それはまるで現実感がなく、初めて体を交わらせたあの日に似ていた。グンナが掠れた声でフリレーテの名を呼ぶと、フリレーテはグンナの唇から指を離した。
「アストラウルが負ければ、属国の王子としてエウリルは苦しむだろう。勝てばオルスナは俺のものだ。グンナ、ここから出たらお前は衛兵軍の、俺がもらった一部隊に復帰することになる。俺にオルスナをくれるね、グンナ」
子供がおもちゃをねだるように言うと、フリレーテは呆然とした表情のグンナの手を優しく離させた。ここじゃ抱いてもらうこともできないな。おかしそうにそう言うと、グンナを見上げてフリレーテは目を細めた。
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