アストラウル戦記

 夜が更けても王太子の自室は明かりがついたままで、部屋に戻って休もうとしていたフリレーテは侍女から促されてアントニアの自室の前に立っていた。
 侍女が先にフリレーテの訪れを告げると、アントニアの声が聞こえた。フリレーテが入ると代わりにそこに控えていた侍女数人が出ていった。それでも、小部屋から誰かが見張っているんだろうな。げんなりとしてフリレーテがお呼びでございますかと尋ねると、寝椅子で本を読んでいたアントニアは顔を上げて鼻眼鏡を外した。
「疲れた」
 そう言って手招きでフリレーテにそばにあるソファに座るよう指示すると、アントニアは腕を枕にして目を閉じた。寝るなら一人で寝ればいいのに。ムカつきながらフリレーテがソファに座ると、アントニアは目を伏せたまま膝に置いた書物をフリレーテに渡した。
「不満そうな顔だな。衛兵軍の男はどうだった」
 アントニアが尋ねると、フリレーテはアントニアのはしばみ色の目をジッと見つめた。
 全て分かっているんだろう。
 それを知っていて、どうして止めない。俺が亡国の因となるかもしれないことを分かっていて、なぜ俺を遠ざけない。
 この男、この国を滅ぼしたいのか。
 考えながらアントニアから目をそらすと、フリレーテは手に持っていた書物を片づけようと立ち上がった。あっちだ。そう言ってアントニアが書棚を指差すと、フリレーテは眉を潜めながら書物を棚の空いていた隙間に差し込んだ。
 そして、動きを止める。
「…アントニアさま」
 フリレーテの華奢な背中を見て、アントニアは身を起こして寝椅子の背にもたれた。
「何?」
「オルスナの歴史にご興味が?」
 自分の声がわずかに震えているように思えて、フリレーテは口を閉ざした。振り向くのが恐かった。恐い? この俺が、なぜ。考えながら、意を決したようにフリレーテが振り向くと、アントニアはいつもと同じようにこちらを見上げて微笑んでいた。
「当然だろう。これから攻め入ろうと考えている国だ。これまでにも概要は知っていたが、忘れていることもあったのでね」
 そう言ってアントニアが手を差し伸べると、フリレーテはその手をジッと見つめた。この体を、欲しがるのか。お前も他の男と同じ。ゆっくりと近づいてフリレーテがアントニアの手を取ると、アントニアはフリレーテの白い手を返して刺繍の縫い取りを施した袖を肘まで捲った。
「今日、ノーマが来てね。ここにほくろのある者は大成するそうだ。あの方はいつまでも呑気だよ。たまに羨ましくなる」
 カッと耳まで赤くなって、フリレーテは思わず腕を取り返してアントニアをにらんだ。これ以上、どうなるというんだろうね。おかしそうにアントニアがフリレーテを見上げると、フリレーテは一歩下がってアントニアをにらんだ。
「恐れながら、ノーマさまは穏やかさを装うことで、平静を保っておられるのでは。アントニアさまのお噂が、あの方のお耳に届いていないとは思えませんので」
「ノーマが知ってるなら、フリレーテ、お前の耳にも届いてるのかな」
 腰の下にあったクッションを取って形を直すと、場所を開けてアントニアはそこに座るようフリレーテを促した。それを無視してソファに座ると、フリレーテはアントニアから顔を背けたまま答えた。
「私は何も。興味ありませんから」
「キツイな。衛兵軍の男の方が、私よりいいのか」
 拗ねたようにそう言うと、アントニアはクッションを抱きしめて寝椅子に寝転んだ。ソフ教の宗教画が描かれた天井を見上げると、アントニアはそれを指差して口を開いた。
「神が私を戒めるなら、私は神の次に何を選ぼう。神が形骸と化すのなら、私は誰を選べばいい」
「…み心のままに。アントニアさま」
「お前は賢いね、フリレーテ。普通なら私を選べと言う所だ」
 そう言ったアントニアを、フリレーテは立ち上がって怒ったように見つめた。
「夜伽なら、ノーマさまをお召しになって下さい。私はこれで失礼を」
「眠れないんだ。ノーマなんか呼んだら、一晩中、ほくろを探される」
「それならセシルを」
「今日は家だよ」
「あなたには大勢、愛人がいらっしゃるじゃありませんか。その誰でも呼べばいい。私には」
 言いかけて、言葉を飲み込んだ。俺は何を言おうとしたんだ。俺は…俺には。
 黙ったままフリレーテがアントニアを見ると、アントニアは真顔でフリレーテを見つめ返していた。しばらく沈黙が続いて、耐えきれずにフリレーテが口を開くと、アントニアはそれを遮るように先に掠れた声で囁いた。
「おやすみ、フリレーテ。ゆっくり眠るといい」
「言われずともそうします。おやすみなさいませ、王太子」
 そう言って、フリレーテはアントニアの部屋を出た。そこに立っていた警護の衛兵が、驚いたようにフリレーテを見た。いい、一人で戻る。侍女を呼びにいこうとした衛兵の一人に声をかけると、フリレーテは足早にアントニアの部屋から離れた。

(c)渡辺キリ