質素な貸し馬車がノヴァン伯爵の屋敷の前で止まると、予期していたかのように門番が扉を開いた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
ナヴィとガスクが馬車から降りると、門番の衛兵は深くお辞儀をしてナヴィたちを屋敷の方へ招き入れた。周囲を警戒するように見回してから門番についていくと、ガスクは剣にさりげなく手をかけたままナヴィに向かって囁いた。
「不用心だな。名を問われるかと思ったが」
「先生が門番に話しておいてくれたんだろ。スーバルン人と二人で行くって先に知らせてもらったんだ」
「そうか」
安心したように剣から手を離すと、ガスクは広い庭をうんざりしたように眺めた。どこまで歩かせる気だ、貴族って奴は。呆れたようにガスクが言うと、ナヴィは笑った。
「アサガに黙ってきてしまったけど…今頃怒ってるかな」
「話してなかったのか。道理でついてくると言わない訳だ」
「うん。まあ…僕とアサガの二人ともいなかったら、ローレンが大変だろうと思ったんだけど」
帰ったらこっぴどくやられるかもね。息をついてそう言ったナヴィを見ると、ガスクは声を上げて笑った。よく分かってんじゃん。笑いながら言ったガスクを軽くにらんで、それからナヴィもふふっと軽く笑った。
「先生の屋敷、ちっとも変わらない」
懐かしげに庭を眺めると、それからナヴィはようやく見えてきた屋敷の玄関を見た。お前、ここに来たことがあるのか? ガスクが尋ねると、ナヴィは一度だけと答えた。
「まだ子供だった頃、一度だけ来たことがあるんだ。先生に勉強を習っていた時だよ。奥さまが招待して下さったんだ。とっても楽しかったなあ」
笑みを見せながらナヴィが言うと、ガスクは今でも子供じゃねえかと考えながらふうんと呟いた。玄関まで来ると門番はそのままドアを開けてナヴィたちを促した。
「こちらでお待ち下さい」
案内されるまま中に入ると、大広間に通されて二人は部屋を見回した。門番は二人を残して、また外へ戻っていった。そこはこれまでに見た貴族の屋敷の設えとは少し違って、書物などの紙で溢れ返っていた。
「なるほど、変人だな」
ガスクが感心したように呟くと、ナヴィはテーブルに置かれた紙を取り上げてそれを眺めた。
「先生の字だ。すごい」
そこには数字と記号の羅列が延々と書かれていた。先生は数学が専門なんだよ。ナヴィが言うと、ガスクはそこにあった書物を開きながら答えた。
「これじゃメシも食えねえな」
「ホントだね。ご自分の部屋で召し上がってるのかな」
ナヴィが紙を元に戻しながら答えると、大広間のドアが開いた。二人がそちらを見ると、執事に支えられて杖をついた白髪頭の男が、不自由な足を引きずりながら大広間に入ってきた。
「エウリル」
「…先生!」
目を見開いてナヴィが男に駆け寄ると、男は杖を離してナヴィを受け止めるように抱きとめた。先生、お久しぶりです。ナヴィが男の手を握りながら言うと、男は答えた。
「本当に何年ぶりだろう。エウリル、大きくなった」
「先生こそ、ご息災で。突然の訪問をお許し下さい」
そう言って手を離すと、ナヴィは振り向いて男の肩に手を乗せた。
「ガスク、この方がノヴァン伯爵だ。僕の恩師だよ」
ガスクが小さく頭を下げると、ノヴァン伯爵は執事から落とした杖を受け取って一歩踏み出した。君はスーバルン人だな。そう言ってガスクの顔を眺めると、ノヴァン伯爵はふんと鼻を鳴らした。
「君はジンカ=ファルソの血を引いているのか。あの男の若い頃にそっくりだ。ジンカ=ファルソはスーバルン人としては鼻が高く珍しい顔立ちをしていた。無関係ではあるまい」
「ジンカは俺の父だ」
ガスクが答えると、ノヴァン伯爵はコンコンと杖を床について鳴らしながら、やはりそうかと呟いた。踵を返してまたすぐに大広間から出ていくと、ノヴァン伯爵は振り向いてナヴィとガスクを見た。
「来たまえ。ここではゆっくり話もできまい。去年、接客用の離れを南側の庭に作らせたのだ。そちらで話そう」
そう言って、ノヴァン伯爵はまた執事に支えられながら歩き出した。ガスクと二人顔を見合わせると、ナヴィはガスクと共に大広間を出た。
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