アストラウル戦記

 コトコトと、シチューを煮るような音がする。
 懐かしい匂いだ。どこで嗅いだ匂いだろう…遠い昔、子供の頃?
 誰かが笑っている。
 赤い髪の子供。
 目を開くと、天井から木で作った魚のモビールがつり下がっていた。目尻から細く涙が流れていた。小さな部屋は熱気がこもっていて、外から雨の降る音が聞こえた。
 まだ降ってるんだな。ぼんやりと考えて、それからガスクは毛布をはねのけるようにガバッと身を起こした。
 ナヴィ。どこだ。
 急に動いたせいで、頭がふらついた。目を閉じて額を両手で押さえていると、ガチャリとドアが開いた。ガスクがビクッとして後ずさると、手に乾いた服を持っていた女が無表情のままかすれた声で言った。
「目が覚めたの。生きていてよかったわね」
「ここはどこだ」
 ガスクが警戒しながら尋ねると、女はガスクの服をベッドにドサリと置いた。女はオルスナ人に見えた。切れ長の目に肩までの黒い髪が印象的で、ガスクが服をつかんで女を見上げると、女はかまどに近づいて鍋の中をかき回した。
「ここはカーチェよ。オルスナの宿って、有名なのかしら。私はよく知らないけど」
 女は漁師が着るような膝下までのズボンを履いていた。白い足が子供のようにスラリと裾から伸びていて、ガスクはその動きを観察しながら変わった女だと考えた。オルスナの女は少ないが、いないことはない。けれどこんな風変わりな格好をした女はいない。
「それであなたは、ガスク? ナッツ=マーラじゃないわよね」
 心臓を鷲掴みにされたかのように、鼓動がドクンと打った。ベッドから立ち上がろうとして、自分が裸で、怪我をした腹を手当されていることに気づいた。なぜ。腹に力が入らず、ガスクが小さな声で言うと、女は鍋から大きく切った野菜の入ったスープを器に入れながら答えた。
「これよ」
 そう言ってレードルから手を離すと、女はシワのついたズボンのポケットに入れていたお守りを取り出した。それを口にくわえて片手で木のスプーンを取り、スープの器をベッド脇のテーブルに置いてから、女はお守りをガスクに渡した。
「パンネルから聞いたわ。それ、グステ村に伝わるラバス教の身代わり札でしょ。同じものをグステ村を発つ時にもらったけど、これは滅多に渡さないんだって言ってたわ。渡した一人は死んだ夫、後はガスク、ナッツ=マーラ、グウィナン、リーチャ。みんな息子だって言ってた」
「あのババア…生きてたか」
 ハーッと息をついて、ガスクは呟いた。グステ村を出てから、パンネルがどうなったのか確かめる術がなかった。ガスクが俯いて目を伏せると、スベリアはそんなガスクを見て答えた。
「あなた、やっぱりガスクね。顔中傷だらけ」
 淡々と話して、お守りを見ながら呆然としているガスクに女はスープを勧めた。それはアストラウルやスーバルンの料理ではなく、香草のせいか変わった匂いがした。でも…俺はこれをどこかで口にしている。しかも、頻繁にだ。戸惑いながらガスクが女を見上げると、ふいに部屋のドアが開いて今度は男が入ってきた。
「驚いたな。もう起きられるのか」
 男もオルスナ人のようだった。たっぷりとした髭のたくわえられた顔を見て、ガスクは驚いて目を見開いた。
「あんたは…」
「驚いたよ。雨が止んだから店で出す魚でも釣ろうかと川に行ったら、あんたが流れてきた。まさか人間が釣れるとは思わなかった。な、スベリア」
 スベリアと呼ばれた女は、肩を竦めた。あ、スベリア。この野菜は食わないんだぞ。そう言って器を見ると、男は笑いながら器を取り上げた。
「へたや皮ばっかりだろ。ただの風味づけなんだ」
「私、料理には興味ないの」
「今のお前の興味は、スーバルン人と数学だけなんだろ。何度も聞いたよ」
 にこにこと人がよさそうな笑みを浮かべて、男は器にスープを盛り直した。
「あんた、プティまでの街道で食堂を開いてるオルスナ人じゃないか」
「そうだよ。俺の名はマクネルだ。店に来たあんたのことはよく覚えてるよ。えらく綺麗な顔のアストラウル人を連れていたし、スーバルン人たちと酒を飲んだろ。あんたらのせいで、ワインを切らしちまって大変だったんだ。さあ、召し上がれ。オルスナ特製スープだ」
 ガスクの質問に、男は気さくに答えた。目の前に置かれたスープからは、湯気が立ち上っていた。急に腹が減って、ガスクは器を取り上げてスープを飲んだ。その分じゃ、パンや肉でも食えそうだな。そう言って、マクネルは戸棚からパンを出して、ナイフで薄くそいだ。
「旨いか。あんた、ホントについてるぜ。ちょうど店に医者がいたんだよ。廃業してプティに別荘を買いたいとかいう、ヨボヨボのじいちゃんだったけどな。そのじいちゃんが手当してくれなきゃ、血がなくなってとっくに死んでただろうよ」
「世話になったようで、すまなかった」
 ガスクが空になったスープの器をスベリアに渡しながら言うと、マクネルは笑いながら薄切りにしたチーズをパンに挟んだ。その間にスベリアが二杯目のスープを器によそっていると、ガスクは膝に置いたお守りを開いて中を見た。
 間違いない。ラバスの札だ。
 守り袋が分厚かったおかげで、水に濡れても中は無事だったのか。
 ふうと息をついて、それからガスクはお守りをギュッと握りしめた。あの後、ナヴィはどうなったんだろう。ガスクが考えていると、パンを乗せた皿を三つテーブルに置いて、マクネルが椅子を引いてそこに座った。
「スベリア、俺たちもメシにしよう。スープを入れてくれ」
 マクネルの言葉に、スベリアは黙ったままスープを更に二人分よそった。それじゃ、いただきます。そう言って、マクネルはラバス教の祈りの形を手で示した。
「あんた、ラバスか」
 ガスクが尋ねると、マクネルは目を細めて笑った。
「スーバルンのラバスとは作法が違うが、おかげで親しみはある。俺の店にスーバルン人が集まって来るのは、どこか同じ匂いを感じてるんだろう」
「そうか…この」
 ガスクがスベリアを見ると、スベリアはマクネルの隣に腰掛けてから答えた。
「スベリアよ」
「スベリアは、あんたの妻か」
 ガスクが尋ねると、マクネルは声を上げて笑った。無表情のままスープをスプーンですくって食べはじめたスベリアを見ると、マクネルもパンにかぶりつき、モゴモゴしながら答えた。
「スベリアは、アストラウル中を旅しているオルスナの学者だ。元はオルスナ王宮にも出入りしていた優秀な学士だったが、禁忌に触れてこの国に逃げてきたんだそうだ」
「大げさだわ。逃げてきた訳じゃない。私は望んでこの国に来たの。オルスナ王宮がマズイことを知られたと思って追ってきたのは、たまたま、よ」
 そう言って、スベリアは食事を続けた。やっぱり不思議な女だ。横目で窺うようにスベリアを見ると、ガスクはとにかく力をつけなければと目の前の食事を口に運んだ。

(c)渡辺キリ