アストラウル戦記

 スラナング邸の長い廊下を、駆けるようにしてアサガは書斎に向かっていた。
 ローレンの使いで貴族の屋敷に手紙を届けに行き、夜になって戻ってきた所だった。途中で雨に降られて、頭からつま先までびしょ濡れだった。それでも着替えもせずに切羽詰まった表情で、アサガは濡れた手で書斎のドアを開いた。
「ローレンさま! エウリルさまは!?」
 顔色の悪いアサガが、半ば怒鳴るように言った。中にはローレンの他にヤソンやユリアネもいて、その表情からさっき聞いた話は本当なのだと分かった。
 スラナング邸に戻ってくるなり、ヤソンの市警団のメンバーからノヴァン伯爵邸で王立軍兵が動いたと聞いた。
 まさかと思いながらアサガが言うと、ローレンは厳しい表情でアサガを見た。エウリルさまは、ノヴァン邸に…? アサガが尋ねると、ユリアネが目を伏せた。
「アサガ!」
 部屋を飛び出そうとしたアサガを、ヤソンが呼び止めた。その途端、部屋に入ってきたイルオマとぶつかって、アサガは真っ赤になって怒鳴った。
「どけ! 邪魔だ!」
「随分ですね。エウリルさまを助けにいくつもりですか。何も分からないのに?」
 アサガを抱きとめたイルオマは、片手に丸めた地図を抱えていた。離せ! アサガが腰に下げていた剣に手をかけると、まあまあと言ってイルオマは笑った。
「今、情報を集めてきた所です。エウリルさまとガスクを捕らえた軍兵は、馬車で彼らを護送しています。このルートです」
 バサリと地図を広げると、イルオマはプティよりずっと西を指差してカロクン川沿いをなぞった。イルオマと一緒に戻ってきた市警団メンバーに、ヤソンがアサガの体を拭く布を持ってくるよう頼むと、イルオマはびしょぬれのアサガを見て地図を濡らさないで下さいよと言った。
「何を呑気なことを言ってるんだ。王宮に戻れば、エウリルさまは殺されるんだぞ!」
 イルオマに腕をつかまれたままアサガが言うと、ローレンが落ち着けと答えながら立ち上がった。イルオマ、頼む。そう言ってローレンが地図を見ると、ユリアネとヤソンも同じように地図を覗き込んだ。姉さん。アサガが呟くと、ユリアネはしっかりと頷いてアサガを見つめた。
「プティ市にある王立軍の駐屯地で仕入れた情報なので、確かだと思います。裏も取ってきました。二人はノヴァン伯爵邸で馬車に乗せられ、カロクン川を北西へ船で遡上し、ここでガスクだけ降ろされてダッタンに運ばれます。その後、エウリルさまは船でそのままアストリィへ」
「…船か。厄介だな」
 イルオマの言葉にローレンが両腕を組んで呟くと、イルオマははいと答えて息をついた。
「こちらには船の準備はありません。陸から船上のエウリルさまたちを奪還するのは無理でしょう。ガスクに関しては、ダッタンへ向かう前に船から降ろされるはずですからその時に救出できます」
 そう言うと、イルオマは視線を上げてローレンを見た。
「雨が降っているから、ひょっとしたらまだ船は出ていないかもしれませんが、雨が止むまでにこの川沿いに停泊している護送船を発見するのは不可能です」
「不可能でも、やってみなきゃ分からないじゃないか! このまま黙ってアストリィへ連れていかれるのを待っているよりも…」
「不可能と分かっている戦術を取るよりも、少しでも可能性のある方法を取った方が、いいとは思いませんか。幸い、こちらには王宮の内部に詳しいローレンさまがついてますから」
 目を伏せて地図を見ながら、イルオマが言った。可能性…。混乱しながらアサガが呟くと、ローレンがイルオマへ視線を移した。
「まさか、王宮へ」
「はい、そのまさかです」
 そう言ってもう一枚の地図を取り出すと、イルオマは元あった地図の上に重ねて広げた。

(c)渡辺キリ