「おかしいですよ。王立軍の規律が乱れているとは言っても、ここまではひどくなかったはずなのに」
駆け出したイルオマが振り向いて町の様子を見ながら言うと、ユリアネは剣を手に持ったままイルオマの後をついて走りながら答えた。
「初めは鎮圧するつもりだったけど、途中でタガが外れたのかもよ。目がイっちゃってるもの」
怒ったようなユリアネに、イルオマは険しい表情でまずいなと呟いた。何が。ユリアネが尋ねると、イルオマは辺りを見回して路地に入った。
「サムゲナンの暴動が、全土に広がるかもしれない。この状況がプティにまで伝われば、即挙兵ですよ」
「ローレンが? でも、まだ武器が揃ってないんでしょ」
「正義に勝る武器はありません」
そう言って、イルオマは狭く汚い路地を抜けて小さな噴水のある広場に出た。そこには兵士はいなかったけれど、家具やちぎれた服が散乱していた。イルオマ。青ざめてユリアネが呼ぶと、イルオマは黙ったままある小さな家の扉を開けた。
「鍵が壊されてる…ヴィーナ! ファーハ!!」
古びたドアは、無惨に壊されていた。ゾクリとして、ユリアネは狭い間口から声を張り上げたイルオマを見上げた。人の気配がしない。せめて避難してくれていたら。ユリアネが祈るような気持ちでいると、イルオマは靴の音を鳴らしながら階段を駆け上がった。
「ヴィーナ!」
スーバルン人の家らしく、階段の脇に大きなタペストリーが飾られていた。ユリアネが息を飲んで、剣を握りしめたまま階段を上がると、イルオマの悲鳴が聞こえてユリアネは驚いて駆け出した。
「イルオマ!!」
ユリアネが部屋に飛び込むと、イルオマが窓際でうずくまっていた。
部屋は物が散乱していて、兵士が荒らした後だと分かった。何かを抱きしめて壁に向かっているイルオマに、ユリアネはそろそろと近づいた。
「…イルオマ?」
その手元を覗き込んで、ユリアネは目を見開いた。
うう…と獣のような呻き声が響いた。
「誰だ」
ふいに背筋にチクリと痛みを感じて、ユリアネは息を止めた。剣を捨てろ。男の低い声に、ユリアネは手に持っていた剣を床へ放った。兵士? せめてイルオマだけでも逃がさなければ。考えながらも今見たもので頭がいっぱいで、ユリアネは男の顔を見ようとわずかに首を動かした。
「イルオマ…」
男の声にユリアネが驚いて振り向くと、男はユリアネに突きつけてた鍬を引いて一歩下がった。男は若いスーバルン人で、浅黒い頬から血を流していた。ユリアネが男を見ると、男もユリアネを見て尋ねた。
「なぜイルオマがここにいる。お前が連れてきたのか」
「そうよ。イルオマの奥さんがここにいるって聞いたから。無事なの? あなたは親族の方なの?」
ユリアネの言葉に、男は舌打ちをしてユリアネを押しのけた。そのままツカツカとイルオマに近づくと、男は座り込んだイルオマの腕をつかんで思いきり引き上げた。
「あっ!」
イルオマの手から、布で作られた大きな人形が二つ転がり落ちた。
「何をする! ヴィーナが…怪我をしてるんだ! 手当しなきゃ…」
ユリアネが床に転がった人形を見ると、それはやぶれて中の籾殻がこぼれていた。どういうこと。指先が震えて、ユリアネが口元を押さえると、スーバルン人の男は手を振り上げてイルオマの頬を殴りつけた。
「お前のせいで、ヴィーナは死んだんだ! 二度と来るなと言ったろ!」
「あ…サマリ」
男の名を呟いたイルオマの頬がみるみるうちに赤黒く腫れて、ユリアネが慌てて間に入った。やめてよ! そう言ったユリアネを、サマリは力強くはね除けた。
「きゃあ!」
はずみで床に叩きつけられて、ユリアネが悲鳴を上げた。ユリアネ! イルオマがユリアネを助け起こすと、サマリが床に落ちた人形を蹴り飛ばした。
「こんなもの…。お前から預かったと行きずりのアスティが置いてったせいで、せっかく調子がよくなってたのに、母さんはヴィーナのことを思い出してまた寝込んでしまったんだ! 全部お前のせいだ! 親父が死んだのも、ヴィーナが死んだのも!」
「待って! イルオマの奥さんは死んだの? そんな訳ないわ」
ユリアネがサマリの足にすがるように言うと、イルオマはユリアネから手を離して床に落ちたままの人形を二つとも取り上げた。ユリアネが立ち上がると、サマリはふんと鼻を鳴らしてから答えた。
「あんたはマトモそうだな。あんたからもイルオマに言ってくれないか。ヴィーナはイルオマのせいで死んだって。もうこの世にはいないんだ。俺たち家族に付きまとうのはもうやめてくれ」
「死んだ…」
呆然と呟いて、ユリアネはイルオマを見た。
イルオマはただ黙って、やぶれた人形を抱きしめていた。
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