王宮から逃亡したエウリル王子が反逆罪で捕まったという一報は、一晩で王宮中に広まった。
その夜、貴族院の会議に出席していたフリレーテは、王宮の中を駆けるようにアントニアの部屋へ向かっていた。その後ろを侍女がお待ち下さいませと言いながら追いかけた。アントニアの部屋を守っていた衛兵がフリレーテを見て敬礼すると、ドアをノックして返事を待たずにフリレーテはドアを開いた。
「王太子…」
肩で息をしながらフリレーテが呟くと、窓のそばに立っていたアントニアは振り向いてフリレーテを見た。
「そろそろ来るだろうと思ってたよ、フリレーテ」
その表情は王宮内の騒ぎとは対称的に穏やかで、フリレーテは眉を潜めた。
「喜んでるかと思ったのに。君は気難しいな」
フリレーテの顔を見て笑うと、アントニアはソファに座った。どういうことです。フリレーテが尋ねると、アントニアはポンポンと隣の座面を叩いてから答えた。
「お母さまなどは、昼からやってきて満面の笑みだったというのに。君のことはすっかり忘れておいでのようだったよ。よかったね」
「そんなことはどうでもいいのです。アントニアさま、第四王子が捕らえられたというのは本当なのですか」
フリレーテが声を荒げて尋ねると、アントニアはフリレーテを見上げた。
「本当だよ。反逆罪で捕らえられ、今は王宮の地下牢にいる。エウリルがプティにいると知らせが入って衛兵軍を向かわせたが、ハイヴェル卿の部隊に出し抜かれたよ。でも、君にとっては私が捕まえようと王立軍が捕まえようと、同じことなんだろう」
アントニアが答えると、フリレーテは力が抜けたように大きく息をつき、それからアントニアの隣に腰を下ろした。
やっと。
やっとだ。はあっとまた息をついて身を屈めると、フリレーテは両手で口元を覆った。エウリルがもう一度、この手の中に戻ってきた。考えただけで背筋がゾクゾクして、高揚感を覚えながらフリレーテはアントニアを見た。
「王宮の地下牢とは…どこに?」
「教えられる訳ないだろう。知りたければ王族か武官になるがいい」
おかしそうにそう言って、アントニアはフリレーテの大きな目を見つめ返した。
まあいい。
そのうち分かる。アントニアから目をそらすと、フリレーテは立ち上がった。もう行くのか。アントニアが尋ねると、フリレーテはええと素っ気なく答えた。
「君の望むがままだな、フリレーテ。これで貴族院に提唱せずとも、オルスナとは戦争になるだろう」
部屋を出ていこうとドアノブに手をかけたフリレーテに、アントニアが声をかけた。フリレーテが振り返ると、アントニアはソファに寝転びながらテーブルに置いていた分厚い本を開いて言葉を続けた。
「オルスナの血を引くエウリルが反逆罪で捕らえられたと公表された、それをオルスナ国王がそのままにしておく訳がない。エンナ王妃がいない今、名誉を守るためにオルスナ三世はこの国に攻めてくるだろう。でなければ、オルスナ王族の正統性すら失われかねないからね。オルスナが勝てばアストラウル王宮はなくなり、王宮への反逆罪で捕まったエウリルは釈放だ」
「…それで、あなたはよかったと」
フリレーテが低い声で尋ねると、アントニアはソファの肘掛けに頭を乗せて天井を仰ぎながら答えた。
「それが時流の流れなら、王太子とはいえ食い止める術を持たないさ。神ならまだしも」
「なぜ、やってみないのです。あなたはこの国が滅ぶまで、ここでそうやって寝転んで傍観してるつもりですか」
「傍観?」
チラリとフリレーテを見ると、アントニアはふふっと笑った。
「ちゃんと参加してるさ。こうやって、チェスでもするように」
そう言って指先を動かすと、アントニアは目を伏せた。アントニアの長い指は美しく、それが器用に動く様はどこか欲情を誘っていた。カアッと耳まで赤くなると、フリレーテは失礼いたしますと吐き捨てるように言って乱暴に部屋を出ていった。
傍観。
手をパタリと本の上に置くと、アントニアはゆっくりと目を閉じた。
誰が傍観などしているものか。内戦の火種は今にも燃え上がりそうだ。サムゲナンで暴走した王立軍を押さえるのに、ハイヴェルは新たにプティに駐留していた軍を投入したと聞く。弱ったこの国でひとたび内戦が起これば、誰もが驚くほど呆気なく崩壊するだろう。
蛇の道は蛇か。
寝不足で火照った頭を冷たい手で押さえると、アントニアは本の間に挟んでいたリストを取り出した。それは、ローレンに与すると誓った貴族の内、アントニア側に寝返った者たちの名が書き連ねられていた。戦わずとも勝つことはできる。ローレン、そのことに気づいているか。
リストを戻して本をまたテーブルに置くと、アントニアは目を閉じた。部屋の隅で控えていた侍女が、毛布を持ってアントニアに近づいた。眠っているように見えたアントニアが手を上げて横に振ると、侍女は毛布を向かいのソファに置いてそのまま部屋を出ていった。
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