アストラウル戦記

 王宮の地下は静かで、ナヴィは固い石の上で寝転んだまま目を閉じ、胸の上で手を組んでいた。明かりがあるだけまだマシだ。食事も水もある。僕を捕らえた部隊がハイヴェル卿のものだったおかげで、以前よりも待遇はずっといい。
 こんな風に考えられるなんて、思いもしなかったな。
 ゆっくりと目を開いて牢の薄暗い天井を見上げると、ナヴィはまた目を閉じて祈った。
 神様、ガスクを助けて下さい。
 どうかあの人が無事でありますように。
 僕の命を、ガスクに与えて下さい。
 あの時、船から落ちていくガスクがバカ野郎と言った気がして、ナヴィは笑いを堪えた。もう一度会えたら、八つ裂きにされそうだ。もうすぐ死ぬかもしれないのに、こんなにおかしいなんて。
「アントニアさま、いけません。これ以上はお近づきになれません」
 ふいに遠くから声が近づいてきて、ナヴィは驚いて立ち上がった。
 牢を守っている兵士が、懸命に制止していた。そばにいたセシルが険しい表情でそれを遮っていた。この方は王太子であるぞ。セシルの声が牢の石壁に響いて、ナヴィが牢の中で棒立ちになっていると、アントニアが気づいて視線をナヴィの方へ向けた。
「情にほだされて、お前たちの獲物を逃がすようなことはしない。少し話をするだけだ。お前たちはしばらく下がっていろ」
 肩から薄手のマントを羽織ったアントニアが、セシルと衛兵に向かって穏やかに言った。しかし…。下がれと言われたのが不服だったのか、セシルが言いよどむと、アントニアはセシルをジロリと見た。
「聞かない方がよい」
 アントニアの言葉に衛兵は震え上がり、慌てて敬礼をして下がっていった。セシルが戸惑いながらも離れると、アントニアはゆっくりと歩いて鉄格子越しにナヴィの前に立った。
「久しぶりだ。随分背が伸びたな、エウリル」
 その言葉は驚くほど優しげで、一瞬、ここが牢獄であることに違和感を覚えたほどだった。それでも眉をキュッと潜めて一歩前へ進むと、ナヴィは鉄格子を両手でつかんでアントニアを見上げた。
「アントニア、僕は罪を犯してない。反逆も、お母さまやハティを殺してもいない」
「お前は既に、私の影響下を離れている。私に言わず、ハイヴェル卿に言うんだな。それでも卿は裁判をと答えるだけだろうが」
 そう言って、アントニアはナヴィの顔を覗き込んだ。
「エウリル、私はお前に聞きたいことがあって来たのだ」
「…ローレンの居場所なら、知っていても知らなくてもアントニアには話せない」
 ナヴィが答えると、アントニアは声を上げて笑った。王宮から出て逃げ回っているうちに、お前も成長したようだな。そう言って、アントニアは鉄格子から離れて息をついた。
「ノヴァン伯爵の元へ、ローレンと密約を結ぶよう要請に行ったんじゃないのか? それなら十分に王宮への反逆罪となりうるが」
「違う、僕は」
 つかんでいた鉄格子を離すと、ナヴィは真っすぐにアントニアを見上げて答えた。
「僕は、僕を助けてくれたスーバルン人たちのために、彼らのことを先生に頼みにいっただけだ」
「…」
 怪訝そうにアントニアがナヴィを見つめ返すと、ナヴィはまた鉄格子をつかんで話を続けた。
「アストラウルに住むスーバルン人たちは、医療も受けられず、食べるだけで精いっぱいの状態なんだ。無料で教育を受けられる場所を作れば、彼らは自分たちの中から医者を生み出し、仕事を生み出して生きていくことができる。僕にはお金も場所も教師もあげられないけど、先生ならそれができると思ったんだ。先生が僕に色んなことを教えてくれたように、スーバルン人たちにも教えてほしかったんだ」
 熱心に話すナヴィに、アントニアは軽く目を見開いた。これが、捕らえられた者の表情なのか。怯えることなく、恐れることなく、なぜそんなにも落ち着いていられる。
「王太子、お願いです。この国にいるスーバルン人に権利を。アントニアならできるんだ。僕が不様に足掻いてもできないことが」
「エウリル、お前はそれを言うために私を待っていたのか。来なければ犬死にだぞ」
 アントニアが尋ねると、ナヴィは首を横に振った。アントニアを待っていた訳じゃない。そう言って、ナヴィは言葉を続けた。
「アントニアがここに来てくれて嬉しかった。でも、逃げ出すことができなかったから僕はここにいるだけだ。アントニア…僕は本当に、何もしていない。お父さまやサニーラさまにもそう伝えてほしい」
 伝えた所で、一人は眠っていてもう一人は有頂天だ。どうにもならない。
 考えながらナヴィのはしばみ色の瞳を見つめると、アントニアはしばらく黙り込んでから口を開いた。
「私は…あの者に望むがままを与えようとしている。その一つはお前だ、エウリル。お前が無実であろうとそうでなかろうと、私はお前をここから出すつもりはない」
「…望むがまま…」
 呆然とナヴィが問い返すと、アントニアはかすかに笑みを浮かべた。
 フリレーテはアントニアの愛人だという話を思い出した。駄目だ。鉄格子をギュッと握りしめ、ナヴィは声を張り上げた。
「フリレーテは…アリアドネラ伯爵は、お母さまとハティを殺したんだ! アントニア! あいつを側に置くな!」
「もう遅いよ」
 ポツリと呟くと、踵を返してアントニアは足早にそこを立ち去った。話が聞こえない所で待っていたセシルが、アントニアに添うように歩き出した。アントニア! ナヴィの叫ぶ声が追いかけたけれど、それはアントニアには届かず空しく響いて消えた。

(c)渡辺キリ