アストラウル戦記

 廊下の向こうから、見張りの仲間が切られているのに気づいて別の兵士が騒いでいる音が聞こえた。やべえな、来るぜ。ナッツ=マーラの後ろにいたスーバルン人が焦ったように言うと、ナヴィの汚れた手をつかんだアサガが振り向いてルイゼンを見た。
「ルイゼンさま…」
 その時初めて、アサガはルイゼンの足下に血のついた剣が落ちていることに気づいた。
 どういうことだ。僕たちが頼んだのは、エウリルさまの牢を見張っている兵士をルイゼンさまの権限で手薄にしてもらうことだけだったのに。
「行ってくれ、アサガ。エウリルさまを守ってくれ」
 ルイゼンが口元に笑みを浮かべて言った。血に汚れた頬は、ルイゼンの端正な顔立ちにひどく違和感を与えていた。ダメだ、ルイゼン。アサガの手をふりほどくと今度はスーバルン人に押さえられ、ナヴィは叫んだ。
「僕たちと一緒に行こう、ルイゼン! ここにいたら、君は僕を助けて兵士を切った反逆者として捕らえられる!」
 涙まじりの声でナヴィが言うと、ルイゼンは黙ったまま首を横に振った。何でだよ!? 懸命に自分を止めるスーバルン人の手をほどこうとして、ナヴィは振り絞るように怒鳴った。
「ルイゼン! ルイゼン!!」
「ルイゼンさま! 僕たちは、いや、ローレンさまはあなたを待っておられます! ルイゼンさまのお立場を考えて連絡が取れなかっただけで、本当はあなたにも僕たちの戦いに手を貸してほしいと思っておられるのです!」
 アサガがナヴィを押さえながら、それでも振り向いて言うと、ルイゼンはジッとアサガを見つめた。できないんだ。掠れた小さな声で呟いて、ルイゼンはわずかにまた笑みを見せた。
「私の父は王立軍長だ。私が行けば、父とて無事では済まないだろう。エウリルさま、私のことは忘れて下さい。次に会った時、敵ならば私を切り捨てて下さい」
「もう行けよ。グズグズしてたら兵士が集まってくるぞ。こいつ、一緒に来る気なんかねえみたいだぞ」
 トンとナヴィの肩を押して、ナッツ=マーラが言った。でも。ナヴィがナッツ=マーラを見上げると、ナッツ=マーラはナヴィの腕をつかんでいたスーバルン人を見て頷いた。
「わっ! バカ離せ!!」
 大きな体のスーバルン人に荷物のように肩に担がれて、ナヴィはジタバタと足を動かした。キュッと唇を噛み締めると、アサガはルイゼンに頭を下げ、それからナヴィたちを追って姿を消した。剣を持って一番最後から逃げようとしたナッツ=マーラは、ふいに思い出したように振り向き、剣を構えてルイゼンに向かって駆け出した。
「!」
「動くなよ」
 鋭く言って、驚いたルイゼンに向かってナッツ=マーラが剣を振った。それは見本のように綺麗な軌道を描いた。その時、兵士たちが倒れた牢番に気づいて駆け込んできた。
 腕を切られた痛みで顔を歪め、ルイゼンは呆然としたまま目の前のナッツ=マーラを見つめた。その顔を見ると、ニカッと笑ってナッツ=マーラはポンとルイゼンの肩を叩いた。
「皮一枚しか切ってないからよ。血まみれで剣持ってんのに怪我がないんじゃお前、俺が兵士を殺しましたって言ってるみたいなもんだぜよ」
「あそこだ!」
 兵士たちがナッツ=マーラに気づいて指差した。
「あんた死ぬなよ」
「何…」
「笑うときゃもっと思いきり笑えよ。なあ、生きてりゃいいことあるって。あんたが死んだら、アサガたちがまたうるさく泣くからよ」
 そう言って剣で肩をポンポンと叩くと、ナッツ=マーラはアサガたちが進んだ後を追いかけて駆け出した。
「あ」
 思わず追いかけようとして足を止めると、その途端、兵士に囲まれて腕をつかまれルイゼンは痛みに顔をしかめた。そこは本当にうっすらと皮一枚だけ切られていて、ルイゼンが血の滲む腕を押さえると、ルイゼンに気づいた兵士が慌てて一歩離れて敬礼した。
「ルッ、ルイゼンさま!」
「ルイゼンさま、お怪我はございませんか。もしや賊に切られたのでは」
 兵士に言われて、ルイゼンが答えようと口を開くと、別の兵士が開いた牢に気づいて叫んだ。
「大変です! 罪人がいません!」
 気色ばんだ兵士たちが、驚いて一斉に牢を見た。
「ルイゼンさま、どうかご指示を」
 うろたえて兵士が言うと、目を伏せて少し黙り込み、それからルイゼンは兵士たちを見回して答えた。
「お前はハイヴェル軍長に報告し、援軍を要請しに行ってくれ。私はここを任されているヴァンクエル伯爵に指示を仰ぎにいく。残りは気をつけて賊を追ってくれ。但し、こちらの通路は王族しか道の分からない迷路になっている。くれぐれも深追いはするな」
 ルイゼンの言葉に、緊張感を取り戻して兵士たちは敬礼をした。行け。ルイゼンが促すと、兵士たちはそれぞれ言われた通りに動き出した。
 誰なんだ、あの男は。
 腕の痛みを改めて感じると、ルイゼンはナッツ=マーラたちが逃げていった通路を見つめた。皮一枚で人を切るなど、誰にでもできる芸当じゃない。スーバルン人だったが…あれがエウリルさまと一緒にいたと報告された、ゲリラのリーダーなのかもしれない。
 考えてそれから血の匂いに気づくと、ルイゼンは手で自分の頬を拭った。どうかこれを。そばにいた兵士が気づいて、ポケットからハンカチを取り出しルイゼンに差し出した。
「ありがとう…すまない」
 そう言ってルイゼンがハンカチを受け取ると、兵士は大したお怪我でなくて本当によかったと答えた。その言葉を聞くと心苦しかった。けれど、ナッツ=マーラが言った死ぬなという言葉がまるで呪文のように、ルイゼンを捕らえて離さなかった。報告を。そう言って兵士を一人連れ、ルイゼンは汚れてしまったハンカチを握りしめたまま元来た道を駆け出した。

(c)渡辺キリ