すぐに支度を調えてオルスナの宿を出ようとしたガスクを、マクネルが引き止めた。その怪我、見た目よりもずっとひどいんだぞ。夜の営業の仕込みをしながらマクネルが声を張り上げると、食堂のテーブルから椅子を下ろして本を読んでいたスベリアが顔を上げた。
「そんなこと、自分が一番よく分かってるんじゃない。ほっときなさいよ」
金がない身に買える薬もなく、痛み止めの切れた腹はずっと切り裂かれるようにじくじくと痛んでいた。血のにじんだ包帯の上からマクネルにもらった服を身につけ、靴の紐を結んでからガスクはマクネルを見て口を開いた。
「助けてもらったこと、世話になったこと、心から感謝している。でも、これ以上ここに長居すればあんたたちに迷惑がかかる。それに」
ナヴィ。生きているのか。
考えてそれから言葉を止めると、ガスクは頭に浮かんだ考えを振り切るように言葉を続けた。
「俺がいたら、今の倍の早さで食物が減るだろ。それじゃ申し訳ない」
「まあなあ。いつもなら今頃はもっとたくさん旨いものを食わせてやれるんだが、今年は麦も野菜も出来がひどくて、仕入れにも苦労してるような状況だ。それでスープの味つけに野菜のヘタや皮まで入れてるという訳さ。それでもこの辺はプティに近いから、まだ少しは食い物が流れてくるがな…」
「人にメシ食わせることしか、考えてないのよ」
小さなじゃがいもの皮をむきながら呟いたマクネルの声に重ねるように、スベリアが言った。変わり者同士なんだな…。少し納得がいって、ガスクはマクネルに近づいて手を差し出した。
「ありがとう。服を返しにまた来る」
「気にするな。どうせ雑巾にしようと思ってた服だ。構わんよ」
そう答えて、マクネルはガスクの手をレードルを持つ手とは反対の手で握りしめた。昼の日中、マントなしに顔をさらして外に出るのは久しぶりだった。ガスクが宿のドアを開いて眩しそうに目を細めると、古いマントを持ったスベリアが追ってきてガスクを見上げた。
「持っていけって。マクネルが」
「でも」
「いいから。これも奉仕よ。マクネルは昔、オルスナでラバスの僧侶をしていたそうよ。国王の粛正にあって後、地下に潜って布教活動をしていたらしいわ」
そう言って、スベリアは手にしたマントをガスクに押しつけた。マクネル、ありがとう。ガスクが奥に向かって声を張り上げたけれど、返事はなかった。
「礼はまた改めてと、マクネルに伝えてくれ」
「いいわよ。ねえ、ガスク」
名を呼ばれてガスクがスベリアを見ると、スベリアは黒い目でジッとガスクを見上げた。不思議そうにガスクが眉を寄せると、一旦目をそらしてからスベリアはまた言葉を続けた。
「ダッタンに住んでいたのよね。レタ=グラジーレという人を知ってる?」
スベリアの目が鋭くなったような気がして、ガスクは眉を潜めて首を横に振った。
「いや、知らないな。アスティじゃないのか」
「そうよ。ダッタンの中部に住んでいたアストラウル人よ」
最後は独り言のように言って、それからスベリアはガスクをまた見上げた。
「ひょっとしたら、もうすぐ会うかもね。もしその人のことを知りたくなったら、私に会いにグステ村に来て。私、もうすぐグステに戻ろうと思ってるから」
「分かった…よく分からんが、分かったよ。ありがとう」
首を傾げながら答えると、ガスクは手に持っていたマントを羽織り、スベリアに向かって軽く手を挙げて歩き出した。その後ろ姿をしばらく見送っていたスベリアが、ふいに思い出したように駆け出してガスクに追いついた。
「何だ」
苦笑してガスクが振り向くと、スベリアははあと大きく息をついてから答えた。
「今はレタ=グラジーレという名じゃないわ」
「え?」
訳が分からずにガスクが尋ね返すと、スベリアはいつものように無表情のまま答えた。
「今の名は、フリレーテ。フリレーテ=ド=アリアドネラ」
息が止まりそうになった。驚いてガスクが息をのむと、スベリアは言葉を続けた。
「王太子の愛人。そして…エンナ王妃を殺した男よ」
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