アストラウル戦記

 アントニアはずっとハイヴェル卿と会談していて、珍しく昼からアントニアの元を訪れていたフリレーテは、隣の小部屋に通そうとする侍女に断りを入れてアントニアの書斎を後にした。
 ルヴァンヌが死んだことを、アントニアは知ってるのか。
 もし知っていて黙っているとしたら…大した精神力だ。
 考えながら王宮の広い廊下で立ち止まると、窓から外を眺めてフリレーテは重い息を吐いた。それから振り向いたフリレーテに、侍女が優雅に頭を下げて何なりとお申しつけ下さいと言うと、フリレーテは侍女を見て答えた。
「先に部屋へ戻ってくれ。私はしばらく散歩してから戻る」
「仰せのままに、フリレーテさま。あまり人気のない所へはおいでにならぬよう、お気をつけ下さいませ」
 それだけ言うと、侍女は優雅に礼をして廊下の脇に控えた。貴族らしくゆったりと歩き出すと、フリレーテは階段を上がる瞬間に気配を消した。
 何を話しているのか、気になる。
 気配を消したままアントニアの書斎へ戻ると、フリレーテはそこを守る衛兵をからかうように目の前で手を振ってから、そっと部屋のドアを開けた。中ではハイヴェル卿がこちらに背を向けて、アントニアと対面するように座っていた。フリレーテがハイヴェル卿のそばに立つと、アントニアは珍しく気難しげな表情をして机に肘をついていた。
「どうしても、オルスナへの斥候部隊を組むことはできんのか。挙兵がいつになるのか知っておかねば護国もできまい」
 呆れたようにため息をついたアントニアに、ハイヴェル卿はいつもと同じように冷静に答えた。
「今は内情を抑えるのに手いっぱいで、起こるかどうか分からない戦に人員を割くことはできません。これまで通り、国境に警備隊を配置するに留めましょう」
「呑気だな、ハイヴェル」
 頬杖をついて呟くと、アントニアはしばらく黙って考え込んだ。なるほど、ハイヴェル卿を動かすか。部屋の隅にあった装飾性の高い椅子に土足で上がると、背もたれに腰を下ろしてフリレーテはアントニアと同じように頬杖をついた。
 この男、やはり知らないんじゃないか。
 アントニアが動揺しないよう、周囲がルヴァンヌの死を隠していることもあり得る。
 そうだ、サニーラがエウリルを苦しめるために、ルヴァンヌが死んだと嘘をついた可能性も。
 考えながらフリレーテがアントニアの端正な横顔を眺めていると、アントニアはふと顔を上げてハイヴェル卿を見つめた。
「よかろう。国内の暴動を最小限に食い止め、国内外の他勢力に対する防衛を固めるよう努めてくれ。今の所、オルスナからは音沙汰もないが、エウリルのこともある。万が一と言うことを常に頭の中に入れておくように」
「かしこまりました、王太子。それでは、今日はこれにて」
 立ち上がって王立軍式の敬礼をすると、ハイヴェル卿は他の将軍たちを連れて書斎から出ていった。
 何だ、いつも通りか。
 その様子をフリレーテが椅子に座ったまま眺めていると、アントニアがふいに立ち上がった。みんな、考え事をしたいから下がってくれ。窓際に立ってアントニアが振り返ると、侍女や侍従たちが礼をして、隣の小部屋へ下がっていった。
 部屋の中には二人だけになり、フリレーテが頬杖をついたままアントニアを眺めると、アントニアは黙ってジッと窓から外を見つめていた。
 ハイヴェル卿とルヴァンヌの話でもするかと思ったが、こんな誰かが聞いているような状況では、それもないか。
 帰ろう。
 椅子から立ち上がると、フリレーテは気配を消したままドアに近づいた。ドアノブをつかんでそっと振り返ると、アントニアの髪が外からの光を受けて、綺麗に光っていた。どんな顔をしてるんだろう。ふいに考えてまたそっと戻ると、フリレーテはそろそろとアントニアの顔を覗き込んだ。
 アントニアは、いつもと同じ表情をしていた。
「私の代で、死を待つばかりの弱国とする訳にはいくまい」
 かすれた小さな声が、アントニアの唇からもれた。
「そうでしょう、父王」
 たまらずその唇に、自分の唇を重ねた。フリレーテがそっと口づけて離れると、アントニアはまだぼんやりと窓の外を眺めていた。誰も知らない。俺だって知らなかった。知ろうとしなかった…アントニアの覚悟を。
 胸が苦しくて、フリレーテは足早に部屋から出ていった。バタンとドアが閉まる音に気づいて、アントニアは顔を上げた。誰だ。いや、誰もいるはずがない。閉まったままの大きなドアを見つめると、アントニアは自分の椅子に戻りベルを鳴らして侍従を呼んだ。

(c)渡辺キリ