「どうぞ、ローレンさまがお待ちでございます」
屋敷に入ると、二人を待ち構えていた侍女がナヴィたちを案内した。とりあえずローレンはまだここにいるんだな。ホッとしてナヴィが侍女について歩いていると、ふいにバタバタと大きな足音が聞こえてきて、ナヴィとアサガは同時に振り向いた。
「ナヴィ!」
廊下を曲がって、ナヴィの姿を見つけてナッツ=マーラが駆け寄った。ナッツ=マーラ! パッと表情を輝かせてナヴィが呼ぶと、ナッツ=マーラは両手を広げてナヴィをギュッと抱きしめた。
「無事でよかった。あの後、追っ手はかからなかったんだな」
グシャグシャとナヴィの頭をなでてナッツ=マーラが満面の笑みで言うと、ナヴィも笑いながら大丈夫だったよと答えた。そちらはどうだったんですか。アサガが尋ねると、ナッツ=マーラは肩を竦めて答えた。
「ないこともないが、返り討ちにしてやった。こっちに王子がいないと分かって、すぐに兵を引いたからな。お前の読みが当たったって訳だ」
「よかった。スーバルンゲリラを死なせたら、ガスクに何を言われるか分かったもんじゃない」
ホッとしてアサガが言うと、ナッツ=マーラはガスクは何も言わないさと答えた。ローレンに報告しなきゃいけないことがあるんだよ。ナヴィがナッツ=マーラを見上げて言うと、ナッツ=マーラは微妙な表情で尋ねた。
「あのさ…まあ、後でいいや」
「え、何?」
ナヴィがきょとんとして尋ね返すと、ナッツ=マーラはうっすらと赤くなって後でいいってと答えた。首を傾げてナヴィがまた歩き出すと、アサガは立ち止まったままナッツ=マーラを呼んだ。
「僕は後で行きますから、エウリルさま、先に」
「うん。じゃあ」
そう言って手を振ると、ナヴィは駆けるように廊下を急いだ。僕で分かることだったら、どうぞ。振り向いてアサガが言うと、ナッツ=マーラは首筋をかきながらあのさあと呟いた。
「あのルイゼンとか言ったっけ、王宮にいた」
「ルイゼンさまですか?」
何を言い出すんだと怪訝そうな表情でアサガが尋ね返すと、ナッツ=マーラはアサガから目をそらして口を開いた。
「あいつって、ハイヴェルの総領息子のルイゼンか」
「そうですよ。本来なら僕たちを捕らえて当然の立場の方です。エウリルさまの幼なじみで、エウリルさまを王宮から連れ出した僕とユリアネの命を助けて下さったんです」
「ユリアネ?」
「あ、そうか。ナッツ=マーラはユリアネと会ったことがないんだな」
廊下の窓際に立っていたアサガが、小さな息をついてナッツ=マーラを見上げると、ナッツ=マーラは腕を組んで壁にもたれながら言った。
「お前らにも色々あったんだなあ。ナヴィは何でまた王宮を出た訳よ」
「はあ? あんたたちってホントに、人のことはどうでもいいんだな。ガスクも最近までエウリルさまが何者なのか知らなかったみたいだし」
今頃何言ってんだと呆れた顔でアサガが言うと、ナッツ=マーラは声を上げて笑った。ガスクのはおめえ、恐がってただけだろ。ナッツ=マーラが目を細めて答えると、アサガは訳が分からないと言いたげな表情でナッツ=マーラを見上げた。
「それで、ルイゼンさまが何ですか」
腰をつかんでため息をつきながらアサガが尋ねると、シーツを持った侍女がナッツ=マーラの後ろからスーッと通り過ぎて行った。それを避けて侍女が行ってしまうのを待つと、ナッツ=マーラは答えた。
「いやさ、ルイゼンのことは実は知ってたんだけど。俺、何年か前、今よりスーバルン人への締めつけが緩かった時にさ、下級陸軍の武術講師やってたことあんのよ。その時、一度だけ見かけたんだけど」
「はあ…」
話が見えずにアサガがナッツ=マーラをジッと見ると、ナッツ=マーラはアサガから目をそらして頭をかきながら話を続けた。
「そんでさ、えらい男前な奴が王立軍のトップ張ってんだなと思っただけだったんだけど。そん時は何とも思ってなかったんだけどさあ」
「はあ…」
間の抜けた表情でアサガが繰り返した。
何か嫌な予感がする。
「王宮の地下で見たあいつの、血まみれの顔さ、何かこう汚しちゃいけないものをメチャクチャ汚しちゃったみたいな、ゾクッとするっていうの? そういう」
「ストップ! それ以上は言わないで下さい!」
自分の耳を両手で塞いで、アサガは叫んだ。
今、あり得ない世界を見せられようとしている。
あわわわと声を出して耳を塞いだアサガを見ると、ナッツ=マーラは怒ったようにその手をつかんでグググと開いた。
「何だよ! 最後まで聞けよ!」
「僕が聞いたって、どうしようもないじゃないですか!」
「聞くだけでもいいから聞いてくれよ!」
「嫌ですう!」
真っ赤になってアサガがわーわーと逃げまどうと、ナッツ=マーラはその耳に思いきり声を押し込むように叫んだ。
「好きになっちゃったみたいなんだーっ!」
あー…。
ガクリと脱力して、アサガは窓枠に手をついた。
あり得ないことを聞いてしまった…。
何でスーバルンゲリラの参謀が、王宮を守る王立軍の軍長の息子に恋しちゃうなんてことが起こるんだ。
「だあってさあ、何つうの、ゾクッとするぐらい色っぺかったつーかさ。血まみれだぜお前、あのお綺麗な顔がよ。死ぬか生きるかってぐらい切羽詰まった奴って、すごいエロいんだなあと思ったんだよ。でも、ハイヴェルの息子だっていうんなら次に会うのは戦場かあ。因果だなあ。敵味方もいい所だぜよ」
ちっとも因果に聞こえない。
力が抜けて、アサガはふらふらと歩き出した。あ、おい。ナッツ=マーラがアサガを呼び止めると、アサガはふいに振り向いてナッツ=マーラをにらみつけた。
「言っときますけど、ルイゼンさまだって僕にとっては大事な方なんだ。おかしな真似をしたら許しませんからね!」
「おかしな真似って何よ」
ニヤリと笑って答えたナッツ=マーラに、アサガは駄目だちっとも分かってないとため息をついた。ルイゼンさま…あの後、どうされただろう。僕たちのことで咎められていなければいいけど。暗い顔でとぼとぼと歩き出したアサガに聞いてくれてありがとなと声をかけると、ナッツ=マーラは鼻歌でも歌いかねない勢いで反対側に向かって歩いた。
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