侍女に案内されてナヴィが書斎のドアを開けると、そこには険しい表情のローレンとエカフィが立っていた。エウリルさま。こちらを向いていたエカフィが気づいて呼ぶと、ローレンが振り向いてパッと表情を輝かせた。
「エウリル!」
「ローレン、心配かけてごめん」
「いいんだ。本当に無事でよかった!」
ナヴィに近づいて右腕で肩を抱き寄せると、ローレンはナヴィの顔を覗き込んだ。少し痩せたんじゃないか。そう言って侍女に食べる物を持ってくるよう頼むと、ローレンはナヴィの手をつかんでソファに座らせた。
「お前が王宮に連れていかれたと聞いた時は、心臓が止まるかと思ったよ。まさかノヴァン伯爵がアントニアと通じてるとはな」
「うん…いや、そうじゃないんだ。先生は僕のためにと思って王立軍を呼んだんだと思う」
「お前のために?」
ローレンが尋ねると、ナヴィは黙って頷いた。
「私はこれで失礼いたします。エウリルさま、戻ってこられて本当に安心いたしました。それでは」
そう言ってエカフィは慇懃に一礼し、書斎を出ていった。スラナング男爵にも心配させてしまったな。申し訳なさそうにナヴィが呟くと、ローレンはナヴィの向かいに座ってにこやかに笑った。
「戻ってこられたんだから、いいさ。どこも怪我はないか」
「うん。ハイヴェル卿の部隊は、僕を王子として扱ってくれたから」
ナヴィが答えると、ローレンはホッとしたように頷いて目を細めた。何から話せばいいんだろう。考えて、それからナヴィは顔を上げた。
「ローレン、驚かないで聞いて」
「話す前からそう言われてもな」
苦笑してローレンが答えると、ナヴィは迷うように言葉を探しながら続けた。
「投獄されている間に、サニーラさまにお会いした。以前より少し…いや、随分疲れていらっしゃる様子だった」
ナヴィが言うと、ローレンは目を軽く見開いた。
お母さまが、エウリルに会ったのか。何か…話したのか。息を飲んでローレンがナヴィを見つめると、ナヴィはローレンを真っすぐに見つめ返した。
「サニーラさまが仰ったんだ。僕が捕まる数日前に、お父さまが亡くなったって」
「え…!」
ローレンが思わずソファから腰を浮かすと、ナヴィは眉をギュッと潜めてローレンを見上げた。重い空気がその場に漂って、呆然としたローレンがストンとまたソファに座ると、ナヴィはじわりと手のひらに汗がにじみ出るのを感じて両手を合わせてから言葉を続けた。
「ローレン、スラナング男爵や他の貴族たちから何か聞いてない? 発表もされてないんだろうか」
「発表はまだない。エカフィからも何も聞いてないが…今、お父さまが亡くなられたと公表されれば、国中が恐慌に陥るだろう。ただでさえ食糧難が続いている時だ。サムゲナンだけじゃなく、他の町でも暴動が起きるかもしれない」
額を押さえて、ローレンが深いため息をついた。
しかし、お父さまが亡くなられたなんて。震える声でポソリと呟いて、ローレンは両手で口元を覆った。その目から、涙が一筋溢れた。ナヴィが歯を食いしばってグイと手の甲で目尻を拭うと、ローレンは顔を覆ってわずかに声をもらした。
静けさの中で、しばらく二人は黙り込んだまま呼吸を繰り返した。
「お父さまの魂が、神の御元で安らかにお眠りになられますように」
ソフ教の祈りの仕草である縦一文字を切って、ローレンが呟いた。ナヴィも同じように祈ると、ローレンは手で涙を拭ってから真っ赤な目でナヴィを見た。
「エウリル、アサガにも話したのか?」
「誰にも話してない。迂闊に口に出せるようなことじゃないもの。ローレンに聞いてからにしようと思って」
「そうか。アントニアは恐らくお父さまが亡くなられたことを秘して、自分の戴冠式が終わってから発表するつもりだろう」
「ローレン、やっぱりこの国は…アントニアと戦うことはもう避けられないの?」
ナヴィが尋ねると、ローレンは黙り込んだ。
アントニアと話して、思った。この人に刃を向けることが、僕にできるだろうかと。目を伏せて唇を引き結ぶと、ナヴィは眉を潜めたまま言葉を続けた。
「アントニアは僕に、ローレンの居場所を聞いたよ。アントニアもローレンのことを敵だと思っているのかな。ローレン、アントニアの側には今、誰もいないんだよ。お父さまもフィルベントももういないんだ」
「しかし、それは自分で招いた結果じゃないか」
ふいに力強い口調でローレンが言った。
驚いてナヴィが顔を上げると、ローレンはナヴィから視線をそらしていた。
「アントニアは、お前を信じないことで全てを自分から遠ざけてしまったんだ。お父さまだって、お前のことを最後まで信じていたと思うよ。お前がエンナ王妃や妃を殺すはずがないって。自分の弟すら信じられない人間が、どうしてこの国を治めることができる? 王宮が正しい道を進むならば、我々が立ち上がる必要はないんだ」
苦しげに言葉を吐き出して、ローレンは真っすぐにナヴィを見た。その視線は揺るぎなく、ナヴィは言葉を失ってただローレンの目を見つめ返した。ローレン、もうどうしようもないのか。僕たちはこのままアントニアと戦うしかないのか。
「ローレン、フリレーテは僕に、この国はオルスナと戦争になると言ったんだよ」
「…え?」
上手く聞き取れずにローレンが尋ね返すと、更に言い募ろうとしてナヴィが口を開いた。その時、ふいに書斎のドアをノックする音がして、ローレンが軽く息をついた。
「ローレンさま」
肩の力を抜いてローレンが入れと声をかけると、侍女がドアを開いて丁寧に頭を下げた。
「市警団の方が、ローレンさまをお連れするようにと。サムゲナンからイルオマという方が戻ってこられたと」
「イルオマが!?」
ローレンが立ち上がると、ナヴィもつられてソファから立った。イルオマはユリアネと一緒だったんだよね。ナヴィが尋ねると、ローレンは頷いて急いで書斎を出た。
「イルオマはどこに? すぐに話を聞かなければ」
「今は一階の、大広間のそばにある客間におられます。ご案内を」
そう言って、侍女が慌てたように書斎を出て歩き出した。エウリル、お前もおいで。ローレンが振り返って言うと、ナヴィは頷いてローレンの後を追いかけた。
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