18
サムゲナンから王立軍が撤退したという報告は、早馬でアストリィに届けられた。
ハイヴェル卿から詳細を聞いていたアントニアは、取り乱す様子も怒り狂う様子もなく冷静で、このような所は父王に似ているのだなと考えながらハイヴェル卿は報告を終えた。しばらく沈黙が続いて、ふいにアントニアが立ち上がって窓のそばに近づいた。
「サムゲナンはローレンの手に落ちたか。仕方あるまい…その代わり、プティは今頃、私と盟約を交わした貴族たちの私設軍に占拠されているはずだ。ハイヴェル、これからプティに駐留している王立軍に対して援軍を向かわせよ。プティで睨みを利かせれば、ローレンはサムゲナンから出られまい」
「しかし、この度の敗北で王立軍兵の約四分の一が負傷しております。今、サムゲナンを捨ててプティに兵を集中させるのは…」
「あくまで援護という形だ。プティを貴族たちに任せれば、必ずプティを我がものにしようと企む貴族が出てくるだろう。サムゲナンにいるローレンへの牽制と同時に、いつでも武力で制圧できるのだという形を見せねばならない」
「…かしこまりました、アントニアさま。仰せの通りに」
そう答えて、ハイヴェル卿はアントニアの脇に側近のように鎮座して目を伏せたフリレーテをチラリと見た。アントニアが政務を執る王宮の広間を出ると、ハイヴェル卿は眉を潜めた。
王は何を考えておられるのだ。
本来なら、あそこにいるのはサニーラ大王妃かノーマ王妃であるはず。大臣でもないアリアドネラ伯爵をああしてお側に置かれるとは。
「ハイヴェル伯爵、どちらへ」
王宮の侍従が、王の部屋の前に立ち尽くすハイヴェル卿に気づいて声をかけた。ああ、王立軍の司令室へ。そう答えると、ハイヴェル卿は王の部屋から離れた。
ハイヴェル卿が出ていってからも窓の外を眺めていたアントニアは、ふいに振り向いて王の椅子へと戻った。あのようなことも指示せねばならんとは。小さな声で呟いたアントニアに、側に控えていたセシルが答えた。
「恐れながら、ハイヴェル卿はプティへの派兵には反対というお考えだったのでは。サムゲナンにヴァルカン公がいるとは言え、貴族の私設軍なくしてそれ以上の進軍はあり得ません」
「お前は話をちゃんと聞いていなかったのか? サムゲナンを解放したのはローレンやスーバルンゲリラではなく、サムゲナンの住人たち自身だよ」
椅子の肘置きに腕を置いて、アントニアはため息をついた。まさか。セシルが驚いてアントニアを見ると、アントニアは目を閉じて考え込んだ。
貴族を押さえれば勝てるという話でもないか。
ジッと黙り込んだアントニアを見つめると、フリレーテは目を伏せた。サムゲナンが民衆の手に渡ったことが国外に知れたら、この国の政情は一気に悪くなる。どうするつもりだ。フリレーテがそっとアントニアの表情を伺うと、アントニアはふいにフリレーテを見て尋ねた。
「君ならどうする。どう考える?」
あまりにも突然の質問で一瞬言葉を選んだ後、フリレーテは答えた。
「私は軍事の専門家ではありませんので」
「だから聞いてるんだ。サムゲナンの住人たちも、軍事的には素人もいい所だ。その彼らが王立軍を追い払ったんだぞ」
大きな黒檀の机に頬杖をついてアントニアが言うと、フリレーテは少し考えてから口を開いた。
「サムゲナンが住人の蜂起で解放されたことは、他の町にもすぐに伝わるはずです。そうなれば、これまでの王宮の圧政に不満を覚えていた民衆たちは、我もと考えて決起するかもしれません。次に危ないのは」
一端言葉を切ると、フリレーテはアントニアをジッと見つめて答えた。
「ダッタン」
「なるほど、君も王制には反対なのだな」
アントニアが呟いて、フリレーテはうっすらと唇に笑みを浮かべてそのようなことはと答えた。
「民衆の気持ちが分かっているよな言い方じゃないか。分かった。セシル、すぐにハイヴェルを追いかけて、プティに向かわせる兵を半分に分けて片方をダッタンへ派兵するよう言ってくれ」
「仰せのままに」
そう言って、セシルは一礼して部屋を出ていった。ダッタンが落ちれば、アストリィも危ないな。アントニアが自嘲的に笑って、その表情を見ながらフリレーテは答えた。
「ダッタンには旧都の城壁が残っています。内からダッタンを固めておけば外からの軍事的援助は難しい。アルゼリオやプティはそういう意味では奪還しやすい場所とも言えます。それをヴァルカン公がどう考えているか、分かりませんが」
「いいだろう。どちらにせよダッタンは渡せない場所だ。王位に就けば問題が解決するとまでは思わなかったが、サムゲナンを失ったのは予想外だったな」
「…」
あえて答えず、フリレーテはアントニアから視線をそらした。
アントニアが今すぐ王位に就くと言った時には、気が狂ったかと思ったが、結局、集まればバカにできない貴族たちの軍事力を押さえることができた。
結果的にサムゲナンはローレン側に落ちたが、貴族たちとローレンとの結束を壊すことはできたのだから。
王、大臣たちがお待ちでございます。侍女が数人入ってきて優雅にお辞儀をしながら言うと、アントニアは立ち上がった。フリレーテ、君もおいで。声をかけられて顔を上げると、フリレーテは答えた。
「いえ、私は…」
「来るんだ。大臣たちにも君が私のそばにいる理由を示しておこう。大臣たちが束になってかかっても、君一人には太刀打ちできまい」
この野郎、人の頭をいいように使いやがって。ムッとしてフリレーテが立ち上がると、アントニアはニコリと笑って手を差し出した。その手をわざと強くつかんで握りしめると、フリレーテは仰せのままにと答えた。
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