アストラウル戦記

 サムゲナンが落ちた知らせは、王立軍の中でも一気に広まった。
 エウリル王子逃亡の一件で謹慎していたパヴォルムは、久しぶりの王宮で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。王子の件で、地下牢にルイゼンの姿があったという。エウリル王子と面会しにきた所を賊に会い、抵抗したが切られたという話を聞いて、ルイゼンが王子を逃がしたのではと確信めいた考えを持っていた。
 しかし、立場的には自分よりも上にいるルイゼンを相手に、そのようなことを口できるはずもなかった。とにかくルイゼンに会わなければ。サムゲナンの報を聞いても上の空でそう考えると、パヴォルムは王宮にある王立軍の司令室を目指していた。
「失礼致します」
 衛兵に断って部屋に入ると、中にはハイヴェルがいつものように椅子に座って軍の司令官数人に指示を出していた。パヴォルムがドアの脇に立って敬礼すると、司令官たちはパヴォルムに敬礼を返して部屋を出ていった。
「ヴァンクエル伯爵、知らせが届いたか」
 そう言ったハイヴェルの隣にはルイゼンが立っていて、いつものように涼やかな表情でパヴォルムを見た。以前のような翳りが消えていて、パヴォルムに対する憎しみすらその顔からは伺えなかった。何があったんだ。エウリル王子に会ったことで何が? パヴォルムが思わずルイゼンに見入ると、ハイヴェル卿は厳しい表情で口を開いた。
「状況はかなり悪いと言えよう。一番の問題は、王立軍が民衆から敵と見なされたことにある。今回の作戦はゴーシブ卿の部隊が大勢参加していたが、どうやら王都から遠く離れたサムゲナンの鎮圧ということで俄傭兵も多数雇っていたらしい」
「それで、王はどのように」
 チラリとルイゼンを見てパヴォルムが尋ねると、ハイヴェルは机の上で両手を組んで答えた。
「初めはプティへ増員をと仰られたが、後から半分をダッタンへ派兵するよう伝えてこられた。サムゲナンと同様、ダッタンも今、飢饉に見舞われている。サムゲナンでの暴動鎮圧が失敗に終わったと噂が伝われば、ダッタンでも民衆が暴動を起こす可能性が高いと考えられたのだろう」
 険しい表情で言うと、ハイヴェル卿は姿勢を正してパヴォルムを見上げた。
「ダッタンへの派兵は、君の部隊から行ってもらう。直ちに武装を整えてダッタンへ向かってくれ。ダッタンのスーバルンゲリラはサムゲナンに向かったという情報も入っているから、内戦部隊は君の部隊に加わるよう伝令を出しておく。対スーバルンゲリラの駐屯地を使いたまえ」
「了解しました」
 王立軍式の敬礼をすると、パヴォルムはルイゼンを見た。ルイゼンは何か記録を取っていて、パヴォルムには視線を向けていなかった。どういうことだ。考えながら敬礼を解くと、立ち尽くしたパヴォルムにハイヴェル卿が声をかけた。
「早く行きたまえ」
「はっ!」
 慌てて答えると、パヴォルムはついてきていた側近にすぐダッタン派兵の準備をと言いながら司令官室を出た。その背中へ冷たい視線を送ると、ルイゼンは記録を続けた。
 あの男を許すことは、一生ないだろう。
 もし今、国中で内乱が起これば…私は戦いに乗じてあの男を殺すかもしれない。
 それだけの猛々しさを、身の奥に感じていた。それを押しとどめ、ルイゼンを平静に保っていたものは、ナッツ=マーラに皮一枚で切られた腕の痛みだった。エウリルさまをお助けした時、自分を切ったスーバルンの男は自分に刃を向けながら死ぬなと言った。その目の輝きの理由が知りたかった。
「ルイゼン…私の目の黒いうちはこの国の平穏を守ろうと思っていたが」
 ふいにハイヴェル卿が呟いて、ルイゼンが顔を上げると、ハイヴェル卿はルイゼンを見上げてわずかに笑みを見せた。
「我々が守るべき民衆が我々から離れていくのは、辛いものだ」
「父上、派兵と共にサムゲナンとダッタンへ配給を開始しましょう」
 ルイゼンが熱っぽく言うと、ハイヴェルは王に進言しても話は通るまいと答えた。王宮からではなく、我々で行うのです。ルイゼンが言葉を続けると、ハイヴェル卿は驚いて目を軽く見開いた。
「どういうことだ」
「今こそ、私財を投じて民衆を救うべきです。我々が貴族に呼びかけてもいい。これ以上の暴動は、民衆の疲弊、この国の疲弊にも繋がります」
「…しかし、国中の配給を担えば軍事が手薄となろう。そうしたいのは山々だが、王宮にも我々にも溢れるほどの財力がある訳ではないのだ」
 ハイヴェルが固い声で答えると、ルイゼンは黙り込んだ。
 しばらく沈黙が続いて、先にルイゼンが口を開いた。
「十分には行き渡らずとも、私の持つ所有地を売れば少しは潤いましょう。父上、私はこれで失礼いたします」
「ルイゼン!」
 ハイヴェルが立ち上がると、ルイゼンは記録をそばにいた侍従に渡して司令室を出ていった。いかん、ルイゼン! ハイヴェル卿が追いかける声を無視して、ルイゼンは足早に王宮の廊下を歩いた。

(c)渡辺キリ