今日の政務を終えると、アントニアは政務室に使っている王の部屋を出てセシルに尋ねた。
「お母さまは、今も上に?」
自室へと戻るアントニアを見守るように、斜め後ろにいたセシルが霊廟にいらっしゃいますと答えた。そうか。短く答えると、アントニアは日の暮れた窓の外を眺めてからフリレーテを見た。
「フリレーテ、今夜は私の部屋へ」
「はい」
怪訝そうな表情でフリレーテが返事をすると、アントニアは嫌かと尋ねた。フリレーテがいいえと答えると、アントニアは笑った。
「ここでは嫌だとは言えないか。私の部屋に来て、思うままに悪態をつくがいい」
「アントニアさま」
咎めるようにセシルが口を挟むと、アントニアは笑みの残る目でフリレーテを見て、セシルがお冠だと言った。食事を一緒にしよう。そう言ってアントニアが先に自室へ向かうと、フリレーテはその後ろ姿を眺めた。
王となってから、アントニアは自分をそばから離さない。
そんなに辛いのか。王の重圧は、普通の人間にはとても耐えられまい。しかし、アントニアは生まれた時から王となるべく育てられてきた。そのお前でも、苦しいものなのか。
「フリレーテさま、お部屋へ戻ってお召し替えを致しましょう」
侍女が声をかけると、フリレーテはそうだなと答えて自室へ向かった。フィルベントの部屋はいつの間にか彼の気配が消えていた。ルヴァンヌが連れ去ったのだろうか。考えながら侍女に任せて服を脱ぐと、美しい絹布で作られた新しい衣装を着せられてフリレーテは侍女に尋ねた。
「これは?」
「アントニアさまからの贈り物でございます。今夜はこちらをお召しになるようにと」
「…」
あのバカ王が。
少し考え込むと、フリレーテはこれはよそうと言って自分で衣装を脱いだ。フリレーテさま。戸惑う侍女に下がるよう言いつけると、フリレーテは衣装棚の奥に仕舞い込んでいた服を取り出した。
手慣れたように靴の紐を足首に巻きつけ、クシャクシャの髪を手櫛でといただけの状態で部屋を出る。
「フリレーテさま!」
部屋の前で控えていた侍女が、青くなってフリレーテを呼び止めた。そのような格好で…どうかお戻り下さいませ! 侍女がそう言って止めるのも構わず、フリレーテはその声を振り切るようにしてアントニアの部屋の前に立つ衛兵に扉を開けよと命じた。
「フリレーテさま…」
今にも泣き出しそうな侍女の声が、部屋に響いた。
自室のベッドに横たわって目を閉じていたアントニアが、騒ぎに気づいて身を起こした。フリレーテの姿に少し驚き、それから笑っていい格好だなと言った。怒ったようなフリレーテを見ると、アントニアは侍女たちに下がれと告げた。
「かしこまりました」
フリレーテには視線を合わさず、侍女たちが優雅に部屋を出ていった。
「アントニアさま、金がないならあのような無駄金を使わないで下さい」
「お母さまが浪費をやめて下さったおかげで、少し浮いたのだ。その分で私が一つぐらい好きなものを買っても罰は当たらないだろ」
「呆れた人だな」
吐き捨てるように言って、フリレーテはアントニアをにらんだ。その格好は? アントニアがベッドから立ち上がると、フリレーテはアントニアを見上げて答えた。
「私がダッタンで着ていた平民の服です」
「似合うな」
「私は元々、平民出ですから」
「だから民衆の気持ちが分かるっていう訳?」
フリレーテの目の前に立つと、アントニアは洗いざらした麻の服を身につけたフリレーテを眺めた。顔を覗き込まれて、フリレーテがアントニアの香水の匂いを避けるように一歩下がると、アントニアはフリレーテの手をつかんだ。
「どのような衣服を着ようと、この手は同じなのに」
「それなら尚更、豪華な衣装など必要ないのでは」
「おかしいね、フリレーテ。君は悪魔のような目をしている時があるのに、悪魔のように欲の限りを求めることはない。どうして?」
フリレーテの手の甲にキスを落としてアントニアが尋ねると、フリレーテは乱暴に手を取り返して答えた。
「何を求めても、心が満たされることはないと分かっているからだ!」
フリレーテの声は、怒っているようにも泣いているようにも聞こえた。
アントニアが驚いてフリレーテを見ると、フリレーテは頬を真っ赤にしてアントニアをにらみつけた。
「本当に人を愛したことのないあなたには、話しても分かりっこない。俺は…」
言葉の途中でふいに手をつかまれ、体中をアントニアの香りが取り巻いた。
息を飲んでフリレーテが大きな目を見開いた。アントニアの力は思ったよりも強かった。ギュッと抱きしめられ、言葉を発することができずにフリレーテがアントニアを押し返そうとすると、その華奢な肩をつかんでアントニアはフリレーテに唇を重ねた。
二度、三度とキスをして、吐息が唇に降り掛かってフリレーテは思わず目を閉じた。アントニアの手が、普段の仕草からは想像もできないぐらい荒々しくフリレーテの背をまさぐった。アントニア。抱きしめられて苦しげにフリレーテが呟くと、アントニアは黙ったままフリレーテの服の裾から手を差し込んだ。
「…っ」
アントニアの目は、欲情の色をたたえていた。押されてよろめき、フリレーテがソファに座ると、覆いかぶさるようにアントニアはフリレーテをソファに押しつけた。
「アントニア…アントニア!」
首を横に振って、フリレーテが顔を背けた。赤い髪がフリレーテの美しい頬に降り掛かって、首筋に唇を這わせていたアントニアは一瞬動きを止めた。フリレーテ。アントニアの低い声が甘く響くと、フリレーテは目の前のアントニアの顔を見つめた。
「分からないのは、君の方だよ。フリレーテ」
今にも唇が触れそうなほど近づいて、アントニアが呟いた。
カッと赤くなると、フリレーテはアントニアを押しのけてソファから降りた。分からない。あれほど明確にあった何もかもが、今は混沌としていた。黙ったままアントニアから離れて部屋を出ると、驚く衛兵や侍女たちにも構わずフリレーテは廊下を駆け出した。アントニアに触れられた素肌は、まるで焦げるように熱っぽく甘やかにフリレーテの感覚を支配していた。
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