アストラウル戦記

 早足でキッチンに飛び込むと、アサガはそこに置いてあった水差しから水を汲んで一気に飲み干した。
「アサガ!」
 後を追ってきたヤソンが、アサガの腕を捕まえた。その顔を覗き込むと思っていたよりも普通で、ヤソンがホッとした途端、アサガは眉を潜めて口を開いた。
「スベリアって誰」
 グッとヤソンが言葉を詰まらせると、アサガはその表情を見て顔を背けた。
「アサガ、いや…大した話じゃないんだ。スベリアは」
 アサガから手を離して、ヤソンは目を伏せた。手に持っていた空のコップを台に置くと、アサガはヤソンを真っすぐに見上げた。
「何」
 アサガのつぶらな黒い目にタジタジとなって、ヤソンは言葉を探した。沈黙が続いて、アサガがキッチンを出ていこうとするとヤソンは慌ててアサガの手をつかんだ。
「スベリアはノヴァン伯爵の弟子で、四、五年前にエカフィの紹介で、海運貿易のルートをどうすればいいか相談に乗ってもらうために訪ねた時、出会ったんだ」
 振り向いたアサガに、ヤソンは一気に言った。それでも黙って返事をしないアサガを見ると、ヤソンはアサガの手を握りしめたまま言葉を続けた。
「その時、俺はスベリアに一目惚れして…恋人になってほしいとは言ったけど、見事に即答でふられたよ。アストラウル人には興味がないと言われた。ノヴァン伯爵からも協力は断られたし、それから一度も会ってない。スベリアのことを聞いて驚いたのは、まさか今さら彼女の名前を聞くことになるとは思ってなかったからだ」
 目を伏せたアサガの黒いまつげを見つめると、ヤソンはキュッとアサガの手を握りしめた。
 分かってほしい。
 今、俺が誰を思っているのかを。
 またしばらく沈黙が続いて、キッチンの外からざわざわと雑音が聞こえた。そっと手を伸ばしてヤソンがアサガの肩に触れると、アサガは引き寄せられるままにヤソンの腕の中に身を寄せた。本当は、まだ少しだけ腹を立てていた。でも、ヤソンの温かさに身動きができなくなって、アサガが小さく息をついた。
 ヤソンは、僕よりずっと大人なんだ。
 好きな人どころか、過去に恋人が何人いてもおかしくない。
 それに、僕だって…。
 考えると胸がチリリと焦げつくように痛んだ。思わずヤソンの服をギュッとつかんだ。僕はもう、ヤソンを。
「アサガ」
 ヤソンの声は甘く、その吐息は目眩がするほど熱っぽかった。アサガがヤソンに抱きしめられたまま目を閉じると、ヤソンはその耳元で囁いた。
「アサガ、今夜…俺の部屋に、来ないか」
 喉が渇いているのか、ヤソンが途切れ途切れにそう言ってわずかに唾を飲み込んだ。カアッと顔が熱くなって、アサガはドンとヤソンを押し返した。
「分かんない」
 真っ赤な顔で、アサガがヤソンを見上げて言い捨てた。そのままキッチンから出ていくアサガを呆然と見つめて、ヤソンは逃げられた…とがっくり肩を落とした。その途端、キッチンに戻ってきたアサガが、ヤソンに飛びつくように抱きついてその唇にキスをした。
「…!」
 ちゅっという音がして、ヤソンが驚いてアサガを見ると、アサガはすぐにヤソンから離れてまたキッチンを出ていった。
 その姿を動けないまま視線で追って、ヤソンは頬を赤くして自分の口を手で押さえた。ヤバイ。顔がにやける。そのままキッチンの壁にもたれると、ヤソンは大きく息をついて天井を仰いだ。

(c)渡辺キリ