アストラウル戦記

「本当にアサガ、行かないの?」
 馬の手綱をつかんでユリアネがアサガに尋ねると、アサガは頷いて笑みを見せた。
「僕はサムゲナンに残って、ローレンさまやイルオマたちとサムゲナンの守りを固めるよ。避難ルートも考えなきゃいけないし、食料も調達しなきゃいけないし、人手不足だから」
「じゃ、イルオマたちをお願いね」
 そう言って、ユリアネは旅仕度を済ませ馬に乗って待っていたナヴィに視線を向けた。行きますか。軽やかに馬に乗ってユリアネが声をかけると、ナヴィとガスクが振り向いて頷いた。
「気をつけて」
 ローレンの言葉に、ナヴィがニコリと笑った。ここから馬なら、グステまであっという間だ。ガスクがそう言って先に馬を歩かせると、ナヴィとユリアネは並んで出発した。
「アサガがいないなんて、何か変な感じだな」
 しばらく進んで、ふいにナヴィが呟いた。空はよく晴れて、突き抜けた青い色をしていた。時々冷たい風が吹いて、ユリアネは髪を風で煽られながらナヴィを見て答えた。
「王宮を出てから、私よりも長い間エウリルさまのお側にいたんですものね。ダッタンからずっと、本当によくやってくれたと思いますわ」
 ユリアネの言葉を聞いて、ガスクがチラリとナヴィを見た。その視線に気づくと、ナヴィは手綱を持って馬を歩かせながら口を開いた。
「アサガとは、僕が四歳の頃に初めて会ったんだ」
 懐かしげに目を細めて、ナヴィは言葉を続けた。
「乳母の息子で、アストリィの郊外に住んでたんだ。お母さまが僕にも同じ年頃の友達がいた方がいいって仰ったらしくて、乳母が連れてきてくれたんだけど、初めて会った時、アサガは真っ黒い髪で真っ黒い目をしていて、僕よりずっと小さくて、本当に可愛かったんだよ」
 楽しそうにナヴィが言うと、ガスクはへえと相づちを打った。興味ないと思ってるでしょう。ナヴィが唇を尖らせると、ガスクは振り向きニッと笑ってナヴィを見た。
「そうでもないぞ」
「ホントかな。アサガは王宮を出てから大変だったから、今はちょっと口うるさい所もあるけど、性格はおっとりしていてのんびり屋なんだよ。僕はアサガのこと、本当に好きなんだ。兄みたいに思うこともあるし、弟みたいに思うこともあるんだ」
「それ、アサガに言ってやれよ」
 ガスクが言うと、ナヴィはそんな照れくさいこと面と向かって言えないよと答えた。ふふっとユリアネが笑うと、ナヴィは視線を伏せてから先を進むガスクの広い背中を見つめた。
「アサガには幸せになってほしい」
 僕のために失った目の分まで。
「それ、言ってやれって」
 ガスクがまた振り向いて、今度は真顔で言った。うん、いつか。ナヴィが呟くと、ガスクは頷いてまた前を向いて馬を歩かせた。
 森を通り抜ける時に馬を止めて、ナヴィとユリアネは荷物に入れていたパンを昼食に摂った。草や木の実を選んで取っては食べるガスクを見て、ユリアネが驚き、面白そうにあれこれと食べられる草を聞いた。昼食が終わるとまた馬に乗り、日が暮れる前にはグステ村の外れに辿り着いた。
「ここでナヴィは倒れていたそうだ。春のことだ」
 川沿いを馬で進んで、朽ちかけた小さな桟橋を指差してガスクがユリアネに言った。今はもう小舟もなく、ナヴィが黙ったまま微笑むと、ユリアネは涙ぐんで神のお導きに感謝しますとソフ教の縦一文字を切った。
 森を抜けてパンネルの小屋に着くと、そこはもう戦闘の跡もなく綺麗に片づけられていた。ガスクが家の裏の水瓶の蓋を開いて、馬を繋いでいたナヴィとユリアネに声をかけた。
「パンネルはここにはいないみたいだな。スベリアが会ったと言っていたから、生きてはいるはずだが」
「僕がこの村に来る前に、スベリアが来ていたってことはない?」
 鞄を背負ってナヴィがガスクに近づくと、ガスクは答えた。
「いや、それはない。スベリアが、あの時にパンネルからもらった守り袋の話をしていたからな」
「じゃあ、村の方に引っ越したのかな。怪我をしてたから…」
 目を伏せてナヴィが呟くと、ガスクはナヴィの頭をポンと叩いた。気にするんじゃねえ。お袋が好きでやったことだ。そう言って、ガスクは振り向いてユリアネにも声をかけた。
「背中は大丈夫か。イルオマが心配してたけど」
「平気よ。ありがとう。もう随分いいの」
 ニコリと笑い返して、ユリアネはどこへ行けばいいのかしらと尋ねた。とりあえず、村の方へ。そう答えてガスクはユリアネが持っていた荷物を取り上げた。
「グステ村のラバス教寺院に、カジュインという親父の友人が今も僧侶をやってる。そこで避難民のことを話してみよう」
 そう言って、ガスクは森からグステ村の中心へと続く道を歩き出した。
 久しぶりだ。
 ガスクの後を歩きながら、ナヴィはそっと周囲を見回した。あの時は、心が固くて何を見ても何も感じなかった。でも、今は色んなものが見える。綺麗な森だな。鳥の声を聞きながら木々を眺めて、ナヴィは目元を袖で拭った。
 リーチャ、やっと帰ってきたよ。
 君の故郷に。
「エウリルさま?」
 ナヴィの後ろを歩いていたユリアネが、怪訝そうに囁いた。何でもないんだ。かすれた声で答えると、ナヴィは口元で笑ってみせてから首から下げた小さな袋を服の上から握りしめた。

(c)渡辺キリ