アストラウル戦記

 サムゲナンでの暴動の噂を聞いたのか、グステ村ですれ違う人たちはどこか落ち着かない様子だった。ガスクの姿を見て、サムゲナンの様子はどうなっているのかと尋ねる人たちが多く、なかなかカジュインの所へ辿り着くことができなかった。
「ちゃんと話すから、サムゲナンの状況を聞きたい奴は、日が暮れてからカジュインの所へ来るように言ってくれないか」
 ガスクが村人たちに大きな声で言うと、村人たちはようやく納得したのかガスクのそばから離れていった。行こう。離れた所で待っていたナヴィたちに声をかけると、ガスクは村人と話しているナヴィに気づいた。
「知り合いなのか?」
 スーバルン人の女は古いけれど綺麗に洗濯してある服を着て、きちんと髪を結っていた。ガスクがその顔を見てああと呟くと、女はガスクに頭を下げてからナヴィの元を離れた。
「パンネルの所に薬を買いにきていたから、顔は知ってるんだ」
 去っていく女の後ろ姿を見ると、ナヴィはカジュインのいる寺院に向かって歩き出した。話したことはないけど。後をついてきたユリアネとガスクに、ナヴィはぼんやりとした視線で前を見ながら言葉を続けた。
「エルマやノクのことを聞いたんだけど、あの後、すぐにグステ村を出て行方知れずなんだって…ザレトも一緒に」
「そうか。パンネルの家を兵士に襲わせたのがノクだと知れたら、村にはいられないだろうな」
 眉を潜めてガスクが呟くと、ナヴィは黙ったまま目を伏せた。ユリアネがチラリとナヴィを見ると、木陰を抜けたガスクがまぶしさに目を細めた。
 グステ村のラバス教寺院は、朽ち果てて屋根にも大穴が開いていた。それでも村人たちが少しずつ補修しているおかげで、一階部分は石造りで頑丈さを保っていた。ガスクが寺院の石段を上がると、ナヴィはそれを追い越して寺院の大きなドアを力を込めて押し開いた。
 ギギギという時間を重ねたような音がする。
「カジュイン!」
 ドアを押さえてガスクが呼んだ。ナヴィに続いて中に入ると、ユリアネが天井を見上げてすごいわと呟いた。祈りを捧げる会堂は荘厳で美しく、静けさを漂わせていた。中に入ってみてもいいかな。ナヴィが尋ねると、ガスクは頷いた。
「カジュイン! 僕だよ!」
 奥に建てつけられた小さな木戸に向かうと、ナヴィは鉄の輪を引いて木戸を開いた。中は小部屋から台所へと続いていて、ナヴィが中に入ると、そこにいた老人が気づいて振り向いた。
「…ナヴィ!?」
 その顔は白髪のヒゲだらけで、カジュインはナヴィを見て相好を崩した。老いてはいるもののしっかりとした腕でナヴィを抱きしめ、カジュインは木戸を潜って小部屋に入ってきたガスクに気づいて顔を上げた。
「お前が連れ帰ったのか。オルスナへ連れていくのではなかったのか?」
「事情があってな」
 わずかに唇を上げて笑うと、ガスクはカジュインと握手を交わした。ガスクの後ろに立っているユリアネに気づくと、カジュインはガスクを見上げた。
「何だ、いつの間に嫁さんをもらったんだ。オルスナ人とは珍しい」
「!」
 目を見開いて、それから唇を尖らせてガスクをニラんだナヴィを見て、ガスクは慌てて違うってと答えた。丁寧にお辞儀をすると、ユリアネはにこやかに笑みを見せた。
「私はこちらにおられるエウリルさまの侍女をしていた者です。エウリルさまの命を助けて下さったそうで、感謝の言葉もございません」
「エウリル!? お前、まさか第四王子か」
 驚いて振り向くと、カジュインはナヴィを上から下までジロジロと見た。お前がエウリルか。ニヤリと笑ってナヴィの肩をつかむと、カジュインは目を細めてナヴィの頭をくしゃりとなでた。
「パンネルが驚くぞ。貴族じゃないかとは話してたんだが」
「パンネルは知ってるぞ、多分」
 ガスクが言うと、カジュインは本当かと声を上げてまたナヴィを見た。
「今なら上で、洗濯物を干しとるよ。パンネルの家が兵士に襲われて、村人が説得してからずっとここに住んでおる。随分、お前のことを心配していたから会いにいっておやり」
 優しげな目でカジュインが言うと、ナヴィは頬を赤くして頷いた。カジュインが階段を指差すと、ナヴィは駆け出した。
 石を積み重ねた階段を駆け上がると、天井につけられていた木戸を頭と腕で押し上げて、ナヴィはそこから顔を出した。広い物干台で、後ろ姿が視界に飛び込んできた。キイと音を立てて木戸を開けると、ナヴィは階段を上がって物干台で立ち上がった。
「カジュイン?」
 気配に気づいて、パンネルが振り向いた。
 風が強くて、ナヴィが目を細めた。一つに縛った髪をなびかせて、パンネルがくしゃりと表情を崩した。ナヴィ。やっとのことで押し出した名が、風に乗ってナヴィの耳に届いた。
「パンネル!」
 パンネルに駆け寄って、ナヴィは両手を広げてパンネルを抱きしめた。ナヴィの背に短い腕を回して、パンネルはふっくらとした頬をナヴィの胸に押しつけた。ああ、本当にナヴィかい。夢じゃないのかい。立て続けにそう呟いて、パンネルはナヴィを見上げた。
「元気そうじゃないか! それに、背も少し伸びたんじゃないのかい。こんなに真っ赤な顔をして。まあ…信じられないねえ。どうしてまたここに」
「パンネルに言われた通り、オルスナに行こうとしたんだけど、僕がオルスナに行けばこの国と戦争になるから留まったんだよ。パンネル、本当によかった。生きていてくれてよかった」
 パンネルの手をつかんで、ナヴィは涙の浮かぶ目尻を手で拭った。あたしはそんなに簡単には死んだりしないよ。そう言って、パンネルはナヴィの腕をポンポンと叩いた。
「下へ降りよう。ゆっくり話を聞かせておくれ。これまでどうしていたんだい。オルスナに行かないなら、すぐにグステに戻ってくりゃよかったのに」
 にこにこ笑いながらパンネルが言うと、ナヴィは口元に笑みを浮かべたまま目を伏せた。階段を降りようと木戸をつかんだパンネルが振り向くと、ナヴィは胸元から下げていた袋を取り出した。
「パンネル、リーチャだよ」
「…え」
 袋を差し出すと、ナヴィはごめんと呟いた。
「リーチャが死んだのは、僕のせいだよ…僕を追ってきた衛兵軍が、リーチャを切ったんだ。僕がダッタンに行かなければ、リーチャは死ぬことはなかったかもしれない。パンネル、リーチャを殺したのは僕なんだよ…」
 かすれた声でナヴィが言うと、パンネルは口元を覆った。
「リーチャ…」
 ナヴィの手ごとリーチャの骨の入った袋を包むと、パンネルはそこに額を押しつけた。ごめん…。重い口を開いて、ナヴィがこめかみをパンネルの髪に押しつけた。しばらく声を潜めて涙を流すと、パンネルはキュッと眉を寄せたままナヴィを見上げた。
「ナヴィ、自分のせいだなんて思うのはおやめ。こうなることは、リーチャの運命だったんだろう。お前がここまでリーチャを連れてきてくれた気持ちは、あたしにはよく分かるよ。お前とリーチャが、ダッタンでどんな風に一緒に過ごしたのかは分からないけれども」
 ナヴィの目をジッと見つめると、パンネルは袋を受け取ってナヴィの背に優しく手を添えた。パンネル、リーチャは僕のせいで死んだんだよ。泣きじゃくりながら呟いて、ナヴィは子供のように背を丸めてパンネルの肩に額を押しつけて泣いた。カジュインに頼んで、供養してもらおう、ね。柔らかな声で言い聞かせると、パンネルは腕を回して泣き続けるナヴィを抱きしめた。

(c)渡辺キリ