アストラウル戦記

「不思議だな」
 空っぽの胃に冷めかけたスープが染み渡って、ナヴィはパンを千切って口に入れながら呟いた。何が? そう言ってガスクが食事を続けると、ナヴィは笑って答えた。
「戦いが始まったばかりで、これからどうなるのか分からないのに、何だか嬉しいんだよ」
「俺といるからか」
 からかうようにガスクが言うと、ナヴィは目を細めて笑った。
「うん」
 ナヴィが答えると、ガスクは素直に頷かれたことが意外だったのか、驚いて赤くなった。ガスクが生きてて本当によかった。パンを口に運んでナヴィが言うと、ガスクもスープとパンを交互に食べながらお前もなと言った。
「川から泳いで岸に上がったの?」
 ふいに思いついてナヴィが尋ねた。その時のことを思い出したのか、ガスクは少し黙ってからナヴィを見て答えた。
「プティに来るまでに、一緒にオルスナ人の主人がやっているという店でメシを食ったろ。その男が助けてくれた」
「そうなんだ。すごい偶然だね」
「まあな。そこでも秋を迎えたのにあまり食材が手に入らないと言ってた。あの辺りは農業が盛んで、カロクン川からも肥えた魚が捕れるはずなのに。マクネルと言ったかな。いずれまた、礼を言いに行かなきゃ」
「僕も行く」
 ナヴィが言うと、ガスクは苦笑した。子供か、お前は。そう言ってナヴィの額を小突くと、ガスクは何か思い出したのか少し考え込んだ。
 スベリア、彼女はどうなっただろう。
 パンを食べているナヴィの横顔を見て、ガスクは目を伏せた。フリレーテのことについて何か知っているなら、こいつにも話を聞かせた方がいいのかもしれない。ガスクが黙って考えていると、パンを食べ終わったナヴィが首を傾げてガスクを見た。
「何?」
「うん」
 ナヴィの髪を大きな手で撫でると、ガスクは口を開いた。
「マクネルの所に旅の学者がいてさ。女で、スベリアっていう名だった。彼女はオルスナ人で、数学をやっていたんだがスーバルン人の文化が知りたくてグステ村にも行ったらしい」
「へえ、何だかノヴァン先生みたいだな」
「そうだな、似てないこともないか…」
 どこか気難しそうな顔をしていたスベリアを思い出すと、ガスクは手に残っていたパンを口に入れてもごもご動かしながら話を続けた。
「スベリアはオルスナにいた頃、何かマズいことを知ってしまって国を追われたらしいんだ。それでアストラウルに逃げて来たそうだが、パンネルから聞いたせいか俺のことも知っているような口ぶりで、俺に、レタ=グラジーレというアスティを知っているかと尋ねた」
「レタ=グラジーレ? 誰?」
 ナヴィがガスクを見上げると、ガスクはナヴィの体に腕を回して引き寄せた。温かな体温が背中を通して伝わって、ナヴィがガスクの首筋に額を寄せると、ガスクは少し迷ってから答えた。
「今の名は、フリレーテ=ド=アリアドネラだと言った」
「…え?」
 かすれた声が、わずかに響いた。
 ガスクがギュッとナヴィの体を抱きしめた。どういうこと? ナヴィがガスクの表情を見ると、ガスクはナヴィの顔を覗き込んで答えた。
「知らないのなら、それで構わない。でも知りたくなったらグステ村に来いとそいつは言った。これからグステに行くからと。スベリアに話を聞けば、ひょっとしたらお前とフリレーテの関係についても何か分かるかもしれない」
 低い声で囁くと、ガスクは落ち着かせるようにナヴィの腕をゆっくりと撫でた。
「ナヴィ、お前はどうしたい」
 僕は。
 軽く目を見開いたまま、ナヴィはガスクの顔を見つめた。スベリアという人の話が本当なら…ガスクはフリレーテのことを何か知っていてもおかしくないってことになる。でも、フリレーテとガスクの共通点なんて、あるとは思えない。
 お前の罪は、何も知ろうとしなかったこと。
 ふいにフリレーテの悲しげな目を思い出して、ナヴィは腕を回してガスクを抱きしめた。知れば、この憎しみは消えてなくなるとでもいうのか。そんなことはない。でも少なくとも、フリレーテの言葉の意味だけは理解できるようになる。
「話を聞いてみたい」
 ナヴィが答えると、ガスクはナヴィの頭を抱きしめてそこにキスを落とした。あまり長くはここを離れられないけど、何とかしよう。そう言って、ガスクは安心させようとナヴィの肩をポンと優しく叩いた。

(c)渡辺キリ