アストラウル戦記

「失礼いたします」
 ハイヴェル卿からアルゼリオ攻略を命ぜられた後、政務室へ呼ばれたパヴォルムは王の元を訪れた。いつもいるはずの大臣や補佐官がおらず、そこには王と衛兵、それに小姓のセシルしか姿がなかった。パヴォルムが怪訝そうに眉を潜めると、窓辺に立って外を眺めていたアントニアは振り向いてパヴォルムを見た。
「君に頼みたいことがある」
 挨拶もそこそこに、アントニアが切り出した。仰せのままに、我が君。パヴォルムが片膝をついたまま頭を垂れると、アントニアは長いマントを引きずってパヴォルムに近づいた。
「ハイヴェルは国内のことで手一杯だ。君の持つ軍事力なら私の望みを叶えてくれるだろう」
「…」
 答えかねてパヴォルムが視線を伏せていると、アントニアは身を屈めて、床に片膝をついたパヴォルムの耳元で囁いた。
「内紛が治まったらすぐに追撃できるよう、君の部隊をオルスナへ先攻派兵してもらいたい」
「オルスナへ!?」
 驚いてパヴォルムが顔を上げると、アントニアは真摯な目を向けて頷いた。し、しかしオルスナとは。パヴォルムが狼狽しながら答えると、アントニアは身を起こして後ろへ下がりテーブルにもたれた。
「そもそもこの内紛は、国内の飢饉が原因の一つになっている。オルスナ侵攻を形だけでも進めれば、経済力強化の手段として民も納得するだろう」
「王、しかし私は、あ…ハイヴェル卿が否と言われたものを、私が承る訳には参りません」
 混乱する頭で必死に言葉を探すと、そう言ってパヴォルムはゴクリと唾を飲み込んだ。
 気でも狂ったのか。この国難に、とても正気とは思えない。
 考えながらパヴォルムがアントニアを見上げると、アントニアはいつもと同じ涼やかな表情でパヴォルムを見ていた。ゆったりとテーブルにもたれたまま、少し首を傾げてアントニアは口を開いた。
「ハイヴェルはいずれ、ルイゼンが継ぐだろう。ルイゼンはエウリルと仲が良かった。その時、オルスナへ攻め入ると言ってもあの石頭は受け入れまい。どうだ、パヴォルム。お前がオルスナ侵攻の中心として私の頼みをきいてくれれば、内紛が終わった後、ヴァンクエル家を王立軍の筆頭将軍として任じてもよいが」
 ハイヴェル家を差し置いて、俺が。
 背筋を恐怖にも快感にも似た震えが貫いた。名実共に、ルイゼンよりも上へ。そうなれば、ルイゼンも俺の言うことを聞かざるを得なくなる。ルイゼンがいずとも、この国の武力を俺の思うがままにできる。
「しかし、私はアルゼリオ攻略を命じられております。それをお座なりにしてオルスナとは…」
「アルゼリオで実質的な戦いは起こらない。サムゲナンから来た加勢と共にすぐにダッタンと合流するはずだ。ハイヴェル卿は恐らく、アルゼリオからダッタンへとお前の部隊を使って反逆者たちを囲い込み、そこで返り討ちにでもするつもりなんだろう。お前は追い落とし要員という訳だ」
「…」
 それで、ルイゼンはアストリィで守護をという訳か。
 もし万が一ダッタンが落ちれば、責任は俺にかかってくる。そうなればアストリィから出兵するルイゼンは、俺の部隊と戦って弱体化した暴徒を鎮圧することになる。ハイヴェル卿の考えそうなことだ。あの老体は息子に大将軍の地位を譲り与えることしか頭にないのだから。
「王、もしオルスナ侵攻を我が部隊が引受けるとなれば、どのぐらいの規模でお考えでしょうか」
 パヴォルムが尋ねると、アントニアは視線を空へ向け、それからチラリとパヴォルムを見た。
「オルスナの南部と、迂回して南東部より侵攻。大部隊の二部構成だ」
「かしこまりました。アルゼリオ攻略を命ぜられた部隊の三分の二を、オルスナへ差し向けましょう」
「頼むぞ。すぐ準備にかかってくれ」
 アントニアが言うと、パヴォルムは頭を下げてから立ち上がって政務室を出ていった。
 あの男は自尊心が強い。オルスナ侵攻の噂もあっという間に貴族たちの間に広まるだろう。
 そうなれば、これまで軍兵を出し渋っていた貴族も少しは考え直すだろう。王宮にはまだオルスナを攻める余力が残っていると。
「アントニアさま…それほどまでに、あの方を…」
 ふいにセシルが呟いて、アントニアが振り向くとセシルはアントニアを真っすぐに見つめていた。
「それほどまでに、あの方が大切ですか。オルスナ侵攻は国を滅ぼすやもしれません。なのに、アントニアさまはフリレーテさまにオルスナを与えるためだけに、オルスナへ攻め入るのでございますか」
「セシル、悪いけどお母さまのご機嫌伺いをしてきてくれるかな」
「アントニアさま!」
 セシルが珍しく声を上げると、アントニアはセシルに近づいてその手をつかみ、小声で囁いた。
「お母さまのご容態は、かなりお悪い。今、お母さまのお力を失う訳にはいかない。セシル、お母さまのご様子を見てきておくれ」
「アントニアさま、私は…」
「まさかフリレーテに見てきてくれと頼む訳にはいかないだろう。お母さまも君のことは、ノーマほどはそう悪くは思っていないしね」
「…アントニアさま」
「頼むね」
 そう言ってポンポンと優しくセシルの手を叩くと、アントニアは政務室の大きな机について書類に目を通しはじめた。話しかけても答えそうにない頑な雰囲気をその表情に感じると、セシルは仰せのままにと優雅に礼をして静かに政務室を出た。

(c)渡辺キリ