アストラウル戦記

 王宮内にあるソフ教の大聖堂は、エウリルが婚儀を挙げた場所でもあった。
 王として即位してから、アントニアは毎朝そこで、護国のための神への祈りの儀式を行っていた。それは父ルヴァンヌ以前から、ずっと代々の王が行っていることでもあった。静けさの中での王の祈りはまるで一枚の絵のように美しく、荘厳だった。
 その様子を大聖堂の入り口で見ていたフリレーテは、誰にも気づかれないままそっと外へ出ていった。朝の風は冷気を含んで、冬の訪れを告げていた。風に髪を揺らして空を見上げると、フリレーテは足早に歩き出した。
 もし俺がここに来なければ、アントニアはどうなっただろう。
 恐らく皆から祝福され、尊敬される立派な王となったに違いない。
 もし、自分の中にルイカの記憶がなければ。フリレーテの頬に一筋の涙が線を描いた。王宮はこんなに平穏で静かなのに、ダッタンは戦火に飲まれている。その火はいずれアストリィに、そしてここにも届くだろう。
 その時、アントニアはどうするつもりなんだろう。
 アントニアがヴァンクエル伯爵の部隊をオルスナへ侵攻させるという噂は、あっという間に尾ひれがついて王宮内を駆け巡った。貴族の間ではオルスナ侵攻を憂国の策と見る者と、危機回避のための上策と見る者に分かれた。
 ハイヴェル卿は怒りの矛先をヴァンクエルへと向け、非常時なのに王立軍は乱れて統制が取れなくなりつつあった。王立軍内でハイヴェル卿と同等の影響力を持ちつつあったルイゼンが、王立軍を懸命にまとめているという話も聞いた。フリレーテが王宮の建物に入ると、そこには朝から集まった貴族たちが不安げに、そしてどこか高揚したように噂話に興じていた。
 気配を消したフリレーテに気づく者は、一人もいなかった。地方へ逃げようと話している貴族を見て、フリレーテはため息をついてサロンを足早に通り抜けた。
「サニーラ大王妃さまが」
 ふいに声がして、フリレーテは足を止めた。
「最近、姿をお見せにならないので、ご病気かと思ってノーマ王妃さまにお尋ねしましたのよ。ノーマさまは何もお答えにならなかったけれど、何だか浮かないお顔をしていらしたの。ご病気だというお話は本当かもしれませんわね」
 貴族の婦人の一人が、羽扇を揺らしながら不安げに話していた。誤魔化すとか、もみ消すとかそれすらもできないのか、あの王妃は。忌ま忌ましげに鼻を鳴らしてサロンを抜けると、フリレーテは最上階まで階段を上がった。
 王宮の最上階は、貴族でも滅多な者は入ってこられない場所で、王宮の衛兵が常に番をしていた。最上階の真ん中にある大きなドアの前にも衛兵が立っていて、その様子にチラリと視線を向けてから、フリレーテはそっとドアを押し開いた。
 そこは、白い壁や柱に彫刻を施した美しい霊廟だった。
 実際に遺体が埋葬されているのは、大聖堂のそばに建てられた墓地だったけれど、王族は亡くなると数カ月の間、この霊廟で御霊を祀られる習慣になっていた。中央に安置されているルヴァンヌの棺は大理石で作られていて、見事な装飾が施されていた。フリレーテがルヴァンヌの棺にそっと近づくと、そこにいた婦人が振り向いてフリレーテを見上げた。
「気配を消した俺に気づくのは、あなただけだね。サニーラ」
 棺に祈りを捧げていたサニーラは目尻の皺も優しげに、以前とは違いその目は澄んで美しい光を放っていて、表情にどこか高僧にも似た静謐さをたたえていた。サニーラの隣に跪いてルヴァンヌの棺に祈りを捧げると、フリレーテはきょとんとした顔で自分を見ているサニーラに微笑んだ。
「命を取りにきたんじゃないよ。あなたはもう死にたいと思ってるかもしれないけど」
 正気を失ったサニーラは、まるで赤子のような表情をしていた。
「エウリルに全部ぶちまげちゃったから、あなたはどこかへ行ってしまったのかな。俺も同じようになれるかな? 今のあなたは、幸せそうだもの」
 フリレーテが話しかけると、サニーラはその言葉には答えずにまたルヴァンヌの棺に額を乗せて祈りはじめた。その小さくなった背中を長い間柔らかく抱きしめて、それからフリレーテは立ち上がった。
 霊廟には窓がなく、高い天井のそばに明かり取りの小窓がついていた。そこから差し込む光は、壁に描かれた王族の物語を映し出していた。それをジッと見上げてしばらくその場に佇むと、フリレーテはまた気配を消して霊廟から出ていった。

(c)渡辺キリ