アストラウル戦記

 夜になると、グステ村の住人たちがガスクの説明を求めてラバス教寺院に少しずつ集まってきた。礼拝堂の燭台に火を灯すと、パンネルは手伝っていたユリアネに声をかけた。
「すまないけど、カジュインに間を保たせるように言っておくれ。あたしはあのバカを呼んでくるから」
「ええ」
 ユリアネが燭台を持って頷くと、パンネルは小さな蝋燭を銀の皿に立て、それをかざして礼拝堂を出た。外はもう真っ暗で、集まる村人に頭を下げてもう少し待っておくれと言いながら、パンネルは辺りを見回した。
 荷物を置いたままだから、寺院の周りから離れてはいないはずだけど。
 スカートの裾をつまんで早足で歩くと、墓地の前でパンネルは足を止めた。明かりに気づいてパンネルが中に入ると、小さな墓の前で座り込む大きな背中が見えた。
「ガスク?」
 パンネルが呼んでも振り向きもせずに、ガスクはただジッとジンカの墓を見つめていた。何やってんだ。もうみんな集まってきてるよ。パンネルが声をかけると、ガスクが掠れた声で尋ねた。
「ジンカは俺を、気味の悪い子供だと思ったろうな」
 低い声に驚いて、パンネルは蝋燭の火をかざしてガスクの顔を覗き込んだ。
「…スベリアに聞いたのかい」
 パンネルが尋ねると、ガスクはパンネルを見て頷いた。その隣にしゃがみこむと、パンネルはジンカの墓を見ながら言葉を続けた。
「ジンカが死んだ今、あたしが何を言っても信じられないかもしれないけど…ジンカはお前を大切に思ってたよ。お前の兄と同じぐらい」
「…」
 ガスクがうつむいて目を伏せると、パンネルは地面にあぐらを組んだガスクの膝にあかぎれだらけの手を置いた。
「お前が生まれて、そろそろ三歳になるからラバス教の洗礼を受けさせようと話していた時のことだよ。それまではあまりしゃべらない子だったのに、突然、何かに憑かれたようにラバスの説法を止めどなく話し出したんだ。あたしは恐くなって、どこで覚えたんだろうとジンカに相談したんだよ。ジンカはお前の言葉を聞いて、若い頃に会ったオルスナ人が話していたラバス教の説法だと言った」
「…覚えてない」
 ガスクがポツリと呟くと、そりゃそうだよ子供の頃のことだものと言ってパンネルは苦笑した。
「ジンカはお前に、どこでそれを覚えたんだと尋ねた。するとお前は、これは自分があたしの腹に入る前から知ってたものだと答えた。ジンカが名を尋ねると、お前はミゲルと名乗った。その頃は何をしていたかと尋ねると、オルスナで僧侶をしていたと答えた」
 ポンポンとガスクの膝を叩くと、パンネルはガスクをジッと見つめた。
「ジンカはお前がラバス教に触れることで、ミゲルの記憶から離れられなくなるんじゃないかと思ったんだよ。だから、お前に洗礼を受けさせるのはやめて、村の中心から離れた所にあたしたちの家を建てた。でも、その頃にはジンカはもうラバス教ゲリラとして活動していたから、ラバスと深い関わりを持つ自分がお前のそばにいると嫌でもミゲルのことを思い出すからと言って、一人でダッタンに移り住んだんだ」
 言うなって言われてたのに、とうとう言っちまったよ。
 ジンカの墓に向かって呟いて、パンネルは黙り込んだ。
 考えるほどに思い出した。
 ぼんやりとジンカの墓石を眺めて、ガスクは唇を引き結んだ。子供の頃の遊び、覚えていた言い伝え。自分が思いついたり、誰かに聞いたと思っていたことのいくつかは。
「パンネル…森で敵を残らず殺めると生き返るという伝承は、親父から聞いたと思ってたけど」
 ジンカの墓石から目を離さずにガスクが呟くと、パンネルは一瞬言葉を探してから答えた。
「そんな言い伝えは、この国にはないよ」
 絡んだ糸が、頭の中で解けていくような気がした。記憶の奥底に押し込んでいた何かが急に浮かんできて溶け出すような開放感と、これまで信じていたものを覆された不安が心に渦巻いていた。ガスクがふと視線を上げると、パンネルはガスクの膝を支えにしてよっこらしょと立ち上がった。
「お前、どうするんだい。もうほとんど覚えてもいないような過去に縛られて、寺院に集まった人たちやお前に力を貸してくれる仲間たちを、お座なりにするつもりかい。あたしはもうお前とは縁を切っているからね。どんな情けない男に成り下がろうと関係ないけどさ」
 そう言って蝋燭の皿を取り上げ、パンネルは歩き出した。ジンカの墓を見上げると、それは静かにガスクを見つめ返しているようにも見えた。俺は…本当にバカだな。考えながら立ち上がると、ガスクはランタンを持ってパンネルに追いついた。
「お袋、ナヴィは」
 ガスクが尋ねると、パンネルはガスクを見上げて答えた。
「今頃、何言ってんだよ。全くグズな男だね。ナヴィなら家に帰ったよ」
「家?」
「ナヴィの家は、村じゃ一つしかないだろうさ。グズな上にバカな息子だよ、お前は」
 パンネルは立ち止まったガスクを置いて、やれやれと呟きながら寺院へ戻った。家へ、そうか。小さく息をついて暗い夜道を見つめると、ガスクはランタンを持って寺院へと急いだ。

(c)渡辺キリ