アストラウル戦記

 怒るだろうな。
 許してもらえないかもしれない。
 大きな目で流れる雲を見上げると、ナヴィはマントの首元を直してからまた歩くスピードを早めた。背中にはオルスナ棒術の武具と、少しの食料が入った袋を背負っていた。ダッタンとサムゲナンを阻む山を迂回して、シジオタ川沿いをずっと北西に歩いてアストリィを目指していた。
 サムゲナンは南部への避難の準備で騒然として、町を出るナヴィの姿に気づくものはいなかった。
 秋の少し冷たい風が強く吹いて、ナヴィの伸びた髪を揺らしていた。日は暮れはじめて辺りは薄暗くなっていて、どこかで野宿をしなきゃいけないなと考えながらも、ナヴィは黙々と歩いた。
 多分、流れは止まらないだろう。
 目を伏せて、ナヴィは眉を潜めた。
 アルゼリオで起きた暴動は、ローレンたちと合流して王立軍に閉ざされたダッタンを解放するだろう。そうなれば、次はアストリィだ。アントニアはプティに集めていた王立軍をアストリィに呼び戻して、守りを固めるはず。そのまま戦火が収まらなければ、勝っても負けても王宮はただでは済まない。
 アントニアも、フリレーテも。
 たった一つの言葉を伝えるためだけに、僕は命をかけるのか。
 本当に、バカだな。大バカ者だ。一番大切な人を心配させるだけなのに。
 ふいに馬の蹄の音が耳に届いた。驚いてナヴィが振り返ると、川沿いの道を馬で駆けてくる男の姿が見えた。足をもつれさせるように早めてナヴィが駆け出すと、馬はあっという間に追いついてナヴィを追い越し、行く手を阻むように前で止まった。
 背中に大剣を背負い、いつもしている革の胸当てを身につけたガスクが、肩で呼吸をしながら真っ赤な顔でナヴィを見下ろしていた。
「ガスク…」
 ナヴィが呟くと、ガスクはナヴィをにらんだ。
「お前は!」
 低い声は辺りに響いて、ビクッと震えてナヴィがガスクを恐る恐る見上げると、ガスクは馬の上からナヴィをジッとにらみすえて言葉を続けた。
「お前に俺たちと一緒に戦えとは言わない。でも、戦えないならグステでユリアネと避難民の世話をするとか、他にいくらでもしてほしいことはあるんだ。どうしてお前が王宮へ戻る必要がある?」
「僕は…」
 言いかけて黙ると、ナヴィはゆっくりと言葉を選んで答えた。
「このまま戦い続ければ、アントニアもフリレーテも生きてはいられないだろう。この国をうねる流れは、きっともう止められないと思う。だから僕は、これまでずっと自分に非がなかったと思い続けてきたことを今のうちにフリレーテに詫びたいんだ。捕らえられてからでは、僕の言葉はあいつには届かない。だから、王宮に行くなら今しかないんだ」
「ナヴィ」
「ガスク、ごめん…もし僕が死んだら、バカな奴だったと言って笑って。それから忘れてほしい」
 ナヴィが言うと、ガスクは馬から降りた。忘れられる訳ねえだろ。怒ったようにそう答えて、ガスクはナヴィを見つめた。
「俺も行く。いや、本当は俺が行かなくちゃいけないんだ」
「駄目だよ」
 落ち着いた様子でそう答えると、ナヴィはガスクを見上げた。
「ガスクには、ガスクを必要としてる人がたくさんいるんだもん。君がいなくなったら、スーバルンの人たちはどうなるんだよ」
「でも、フリレーテのことは俺の問題だ」
「違う」
 真っすぐにガスクを見て、ナヴィは答えた。
「これはオルスナ王族とルイカとの問題だ」
 言葉を失ったガスクを、目をそらす時も惜しいといった様子で見つめると、ナヴィはふいに目を潤ませた。
 好きだ。
 本当は、ずっと一緒にいたい。
 ガスクの力になりたい。ガスクを守りたい。
 いつまでも君のそばで笑っていられたら。
「大丈夫だよ。僕は悪運が強いんだよ。まだ死ぬ気はしないしさ」
「…ナヴィ」
「アントニアとフリレーテに会えたら、その後はガスクたちとこの国のために力を尽くすよ。アストリィで待ってて」
「分かったよ。もう、何でお前はそうなんだ。反対されても否定されても、自分がこうだと思ったらそれを曲げないんだ」
「…ごめん」
 目を伏せてナヴィが謝ると、ガスクは手を伸ばしてナヴィを抱きしめた。小さな頭を抱いてその髪に頬を埋めると、頭をなでさすってからナヴィの額にキスした。兵士に見つかりそうになったら、逃げろよ。そう言って、ガスクはナヴィの大きな目を覗き込んだ。
「死んだって何にもならねえぞ。生きてなきゃ、許さねえ。だから、目的を果たせなくても死にそうになったら一目散に逃げるんだ」
「そんなこと言いながら、自分は最後まで戦場に残るんだから、ガスクは」
 苦笑してガスクの頬を両手で包むと、ナヴィは背伸びをしてガスクに口づけた。
「ガスクこそ、僕より先に死んだら許さない」
 鼻がつきそうなほど顔を近づけて囁くと、ナヴィはもう一度、ガスクの唇に自分の唇を重ねた。しっかりと強く抱き合うと、互いを確かめ隙間を埋めるように力を込めて、それからナヴィとガスクは名残惜しげに手を離した。先に歩き出したナヴィの小柄な背中を見ると、ガスクは声を張り上げた。
「もしヤバくなって、王宮から出られなかったら、そのままそこで待ってろ! 今度こそ必ず迎えにいくから!」
 ガスクの言葉に少しだけ振り向いてちょいと手を挙げ、それからナヴィはまた振り切るように歩き出した。その姿が木の影に隠れて見えなくなるまで見送ると、ガスクは素早く馬に乗ってサムゲナンの方向へ馬を走らせた。

(c)渡辺キリ