王の霊廟は美しく、清浄な白に包まれていた。
外での騒ぎにも取り残されたかのように、そこでアントニアの救済を祈り続けていたフリレーテは、ふいに祈りをやめて視線を上げた。音がしたような気がする。フリレーテがルヴァンヌ王の棺の前で振り向くと、ふいにガタリと音がして、霊廟の隅にある装飾の施された石がわずかに動いた。
「!」
驚いてフリレーテが護身のために懐中に忍ばせていたナイフを取り出すと、石はズリズリと床を這うように動いた。そこからゲホゲホと咳き込みながら出てきた男を見て、フリレーテは眉を潜めてナイフを構えた。
「…フリレーテ。どうしてここに」
それは、王宮内にあるという秘密の通路の一つらしかった。埃に塗れたナヴィがナイフを構えたフリレーテを見て驚いたように呟くと、フリレーテは皮肉気に笑って答えた。
「お前こそ、何をしに王宮へ戻ってきたんだ。アントニアの正確な居場所を解放軍に伝えるためか」
「僕は戦いには参加していない。アストリィが戦場になってしまったから、北側へ迂回して王宮に戻ってきたんだ」
落ち着いた様子で答えると、ナヴィは一歩前へ踏み出した。フリレーテ。名を呼んで近づくと、ナヴィはフリレーテの目を真っ直ぐに見つめながら言葉を続けた。
「いや、ルイカ」
目を見開いたフリレーテに、ナヴィはふと大きな棺に気づいてそれを見上げた。お父さま、あなたはここに? 考えて涙ぐむと、ナヴィはルヴァンヌの棺に右手でそっと触れてからフリレーテを見た。
「ルイカ、君がオルスナ王族を恨んでいる理由を知った。お母さまを殺した理由も、君がルイカの記憶を持ってこの国に生まれたことも」
「なぜ、それを…」
フリレーテの声は掠れていた。ナイフを強く握りしめた手は震えて、感覚がなかった。フリレーテがナヴィを凝視すると、ナヴィはルヴァンヌの棺のそばに立ったままフリレーテを見つめ返した。
ガスク、ごめん。
約束したのに。
でも、その約束は果たせないって、あの時から分かってたんだ。僕は生きてガスクの元に戻るつもりはなかった。他に僕にできることは、もう何一つ残っていないんだ。
ルイカが再び憎しみを抱えたまま生まれてこないようにするには、こうするしかないんだ。
黙ったまま言葉を待つフリレーテに、ナヴィが言った。
「ルイカ、僕を殺せ。それで終わりにしよう」
手の指先が、冷たく痺れていた。
身の奥が歓喜にうち震えているのが分かった。これは、俺の中に残ったルイカの記憶。ルイカの人格が、その幸運に狂喜しているんだ。目の前のナヴィの大きな目を見据えると、ナイフを構えてフリレーテは唇を噛み締めた。
エウリル、お前の命は初めから俺の…ルイカのものだった。
だから、その血の最後の一滴まで、ルイカがもらう。
「僕を殺して、憎しみを終わらせよう。おじいさまはまだ生きているけれど、ルイカ、もう忘れて眠るんだ。こんな苦しみは…もう僕たちでおしまいにしよう」
ナヴィの声は、静かな霊廟の高い天井に響いた。忘れる? 憎しみを? ぼんやりとナヴィの顔を見つめて、フリレーテは口を開いた。それでも言葉にならず、また閉じる。
この憎しみは、生まれた時から俺の中にあった。
今もお前の姿を見るだけで、憎しみと恨みの熱が体中を駆け巡る。
お前を殺せば、忘れることができるのか?
…そんなはずはない。
ナヴィに向かって歩き出すと、フリレーテはナヴィの目の前に立った。何度も対峙してきた顔だった。それはこれまで見たこともないような穏やかな表情で、フリレーテはまだ小刻みに震えている手で持ったナイフの先を、ナヴィの肩に突きつけた。
その刃先が肉に潜ると、ナヴィはグッと歯を食いしばった。
エウリルを殺せば、終わる。
呪文のように言い聞かせて。
フリレーテの目から、涙がこぼれ落ちた。ナヴィの肩から流れた血は、ナイフからフリレーテの手を伝ってポタリと床へ落ちた。血と同じように涙も、フリレーテの美しい頬を伝って床へと落ちていった。両手でナイフを握りしめると、まるでナヴィに支えられるようにフリレーテはナヴィの肩に細身のナイフを突き立てた。
「…うあ…っ」
痛みで気が遠くなって、ナヴィは大きく息をついてフリレーテの肩に額を押しつけた。その呼吸を感じると、フリレーテはふいに手を離した。どうして。ナヴィがナイフの刺さった肩を押さえ、青白い顔でフリレーテを見ると、フリレーテは一歩下がって黙ったままナヴィを見つめた。
そのまま、随分長い間、そこにいたような気がした。
「僕をずっと殺したかったんだろ…」
ナイフを肩から力を込めて抜いて、ナヴィはそれを床に落としてそばにあった大きな棺にもたれた。力が入らない。左の腕はだらんと垂れ下がって、肩からは血が流れ続けていた。ナヴィがだるそうに首をもたげてフリレーテを見上げると、フリレーテは顔を覆って振り絞るように叫んだ。
「お前を殺したって…ミゲルはもう戻らない…!」
フリレーテの声は、霊廟の隅々まで切なく響き渡った。
どれほど詫びたって、許されることじゃない。
肉親を失うその辛さは、分かったと言うことさえもおこがましい。
「ルイカ…」
はあと大きく息をついて、ナヴィは棺にもたれたまま呟いた。その時、霊廟の扉が開いて二人が振り向くと、アントニアが驚いたように目を見開いて二人を見ていた。
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