アストラウル戦記

「なぜ…ここにエウリルが」
 そう言ってから、フリレーテの手についた血とナヴィの肩の傷に気づいて、アントニアは表情を強張らせた。
「フリレーテ、君が」
「アントニア…戦いをやめさせて」
 肩の傷は熱をはらんで、立っていられずに棺に体を預けてナヴィが言った。
「お前はそれを言うために、王宮へ戻ったのか。死ぬかもしれないのに」
 アントニアがフリレーテの体を支えるように抱いて言うと、ナヴィは首を横に振ってから答えた。
「フリレーテに話があって来た。この戦いが終わる前に、フリレーテに伝えたかった。アントニア、でも、もし王宮でアントニアに会えたら、この戦いをやめさせられるのはアントニアしかいないから、それを言おうと思ってた」
 お願い。
 それだけ言うと、ナヴィはその場に崩れるように座り込んだ。気が遠くなる。肩から血は、止めどなく流れ続けていた。アントニアの腕に抱かれたままフリレーテが震えると、その体を抱きしめてアントニアは呟いた。
「エウリルは知らないのか…もう、この戦いが終わろうとしていることを」
「アントニア」
 フリレーテがアントニアを見上げると、ふいに勝鬨の声が上がった。それは王宮を震わせるかと思われるほど大きく力強く、建国の産声のようにも聞こえた。手を伸ばしてアントニアの体を抱きしめ、フリレーテが黙ったままそこに力を込めると、アントニアはフリレーテの顔を覗き込んだ。
 目に笑みを浮かべて。
「愛してるよ」
 そう囁いて、アントニアはフリレーテに口づけた。フリレーテがアントニアの首筋に腕を回すと、二人は抱き合って口づけを交わした。エウリルの傷を。フリレーテの口元でアントニアが囁くと、フリレーテはアントニアに抱かれたままナヴィを見下ろした。
「殺せなかった…あんなにそれだけを願っていたのに」
 そう言ったフリレーテをギュッと抱きしめると、手を離してアントニアはナヴィを抱き起こした。ん…。ナヴィが小さな声で呻くと、アントニアは血の流れる肩の傷を手で覆い、それから自分のマントを脱いでナヴィの肩を押さえた。
「エウリル、しっかりしろ。戦いはもう終わるんだ」
 アントニアが言うと、ナヴィがうっすらと目を開いた。本当に? ナヴィが自分の肩をマントの上から押さえて尋ねると、アントニアは頷いた。
「恐らくここにも、解放軍は来るだろう。王立軍の司令室にいる兵士たちに、私がここにいることは伝えてある。解放軍が私の死を見届ければ、この戦いは終わる」
「…ダメだよ、そんなの。ローレンが悲しむよ」
 ギュッと眉をしかめて、ナヴィは肩を押さえて力なく身を起こした。ナヴィの体を棺にもたれかけさせると、そこに膝をついたままアントニアはフリレーテを見上げた。
「エウリルは避難通路からここへ来たんだな。あの石の向こうの通路は一本道だ。地下の通路は王宮の外まで続いてる。フリレーテ、今すぐに外へ逃げるんだ」
「何を…何言ってるんだ。愛してると言ったその口で、俺にまた一人になれって言うのか! そんなの…残酷だよ」
 フリレーテの言葉に、アントニアは黙り込み、それからしばらくしてすまないと呟いた。でも。床に落ちていたナイフを拾うと、アントニアは立ち上がってフリレーテをジッと見つめた。
 君に全てをあげたかった。
 けれど…それは叶わなかった。
 それなら、私がたった一つだけ確かに持っているものを、君にあげたい。
 私の最後の愛を。
「…! アントニア!!」
 手に持ったナイフを自分の腹に突き立てて、アントニアはその場に崩れ落ちた。
 フリレーテの悲愴な声が、霊廟に響き渡った。アントニアに駆け寄ってその顔を覗き込むと、フリレーテはその大きな目からポロポロと涙を零してアントニアを支えた。すまない。アントニアが掠れた声で囁いた。手を伸ばしてフリレーテの涙に塗れた頬に触れると、アントニアは笑みを見せてから目を閉じた。
 頭がおかしくなりそうだ。
 自分の心臓の音が聞こえそうだった。耳鳴りがして、アントニアの体温を腕に感じながらフリレーテは呆然とアントニアの顔を見つめた。王を探しているのか、王宮の建物に入った解放軍の兵士が階下で騒いでいた。見張りの衛兵のいない今、解放軍が霊廟にいるアントニアに気づくのは時間の問題だった。
「…何を」
 脇からアントニアの腕を抱えて、ナヴィが歯を食いしばってアントニアを抱き起こそうとしていた。呆然としたままフリレーテが呟くと、ナヴィは真っ赤な顔で力の入らない腕に懸命に力を込めながら怒鳴った。
「決まってるだろ! アントニアを逃がすんだよ!!」
「!?」
 目を見開いてフリレーテがナヴィを見ると、ナヴィは気を失ったアントニアの腕を自分の肩に回して、懸命に立ち上がろうとしながら言葉を続けた。
「まだ死んでないんだ! 解放軍はアントニアを捕まえたら殺すかもしれないだろ! 早く!」
 ナヴィの言葉に、フリレーテはナヴィとは反対側からアントニアを支えた。二人で腕を回してアントニアを抱えると、フリレーテは涙を拭いてナヴィと共に踏んばって立ち上がった。通路から! 早く! 自分の肩からも血を流しながら、顔を歪めてナヴィが怒鳴ると、同時に霊廟の扉がバタンと音を立てて開いた。
「…あ」
 そこには血と泥に汚れたガスクが立っていた。
 その後ろからヤソンとイルオマが駆け込んできて、ガスクは二人に手を上げて止めてから霊廟に入った。ナヴィ。名を呼んで肩の傷に気づくと、ガスクはぐったりとしたアントニアを見てイルオマに二人の手当を頼んだ。
「動くな!」
 自分の腰に差していた小剣を空いていた手で逆手に抜くと、それをガスクに突きつけてフリレーテは怒鳴った。
「動くな。アントニアは王宮の外へ逃がす。それまで、誰も動くな」
 そう言って、フリレーテはアントニアの体を抱え直してから剣の先をナヴィの首筋へ向けた。イルオマとヤソンが緊張したように息を飲んだ。フリレーテ。ナヴィが呟いてフリレーテの横顔を見ると、フリレーテは後ずさりしながらアントニアを抱えて通路へ近づいた。

(c)渡辺キリ