アストラウル戦記

「フリレーテ…ナヴィを、エウリルを返してくれ」
 ガスクが落ち着いた声で言うと、フリレーテはピクリと眉を上げた。
「そいつはケガをしてる。一緒に連れて逃げれば、途中で倒れるかもしれない。ナヴィは返してくれ。頼む」
「お前はスーバルンゲリラのリーダーか。ダッタンで会ったな。スーバルン人のお前が、なぜこの男を庇う。この男はアストラウルの王子だぞ」
 固い声でフリレーテが言うと、ガスクは黙り込んだ。
 焦りの中で、時が過ぎていく。
「…アスティもスーバルンも、ソフもラバスも対立するだけが道じゃないということを教えてくれたのは、ナヴィだ」
 ガスクが言うと、フリレーテはガスクを見上げた。
 どうして。
 これまで誰の言葉も耳に入らなかったのに、この男の言葉はどうしてこんなにも胸に響くんだろう。
 フリレーテの大きな目から、再び涙が零れた。
「お前の憎しみも、いつか消えてなくなる」
 俺がそうだったように。
 ガスクの目が柔らかくフリレーテを見つめた。ルイカ、俺のことはもう忘れていいんだ。忘れることを、ミゲルは望んでる。時が経てば、心の底から笑える日が来るよ。だから、もう殺すな。
「分かったようなことを…」
 力なく呟いて、フリレーテは剣を捨てた。ヤソンがフリレーテを拘束しようと駆け出すと、ガスクはヤソンを止めてイルオマにナヴィの手当を頼んだ。
「ガスク!」
 ヤソンが怒鳴ると、ガスクはヤソンをジッと見据えた。
「行け」
 ガスクが通路を視線で示すと、フリレーテは驚いたようにガスクを見た。
 イルオマが慌ててナヴィの体を抱えると、ナヴィはケガしてる所をつかむなよと顔をしかめて呟いた。片方の支えを失ったアントニアの体は傾いて、それを力を込めて抱きかかえてからフリレーテはガスクを見上げた。
「後々、火種の原因となるぞ。アントニアを生きて逃がすことは」
「お前たちにその気があるならな。俺たちは、王は行方不明だと報告するだけだ」
 ガスクが低い声で言うと、フリレーテは黙ったままアントニアを支え、一歩ずつ通路に向かって歩き出した。ちょっと待って下さいよ。そう言って、イルオマは腰に下げていた小さな食料袋を外してフリレーテの腰にくくりつけた。
「薬も少し入ってますから」
「…バカ揃いだな、解放軍は」
 振り向いて言うと、もう一度ガスクを見上げ、それからフリレーテはアントニアの体を棺にもたれさせた。ふらつきながらアントニアを背負うと、今度は振り向かずにフリレーテはアントニアと共に通路の向こうへと姿を消した。
「あいつの言ったことは、間違いじゃないぞ。アントニアが逃げたとなれば、貴族たちがまた集まって王政復古と洒落込むぞ。お前、そうなったら責任取れんのか」
 ヤソンが怒ったように言うと、そばでナヴィの肩の傷の手当をしていたイルオマが視線を上げた。
「じゃあ、ヤソンが追っかけていって二人を切ればいいじゃないですか。人に文句を言っといて、自分はやらないなんてヘタレのすることですよ」
「お前に言われたかないよ」
 ムッとしてヤソンが答えると、そばで聞いていたナヴィが声を上げて笑い、それからイテテと呟いて肩を押さえた。それを見て口元に笑みを浮かべると、ガスクはフリレーテたちが消えた通路に近づいて、動かしてあった石を元の通りに直した。
 フリレーテ。俺とお前の母しか知らない、俺がつけたミドルネームだ。
 ルイカ=フリレーテ=ゼマーン。
 お前、それを名乗って、俺が気づくのを待っていてくれたのか。ずっと忘れていて、ごめん。フリレーテ、今頃、思い出したことがあるんだ。
 俺はお前を愛していたよ。
 動けなくなった体で、お前の手を頬に感じながら、お前の声を聞きながら、全身全霊をかけてお前を愛してた。
 …もう二度と、それを告げることもない。
「戻ろう。これからだって、まだ戦いは続くんだ。貴族たちは内戦を恐れて隠れているだけで、またアストリィに戻ってくる。王太子だって行方不明のままだ。奴らが戻ってくる前に、ローレンが言うような国の形を作っておかなくちゃいけない」
 ガスクが振り向いて言うと、イルオマとヤソンは頷いた。そうだな。早く戻ってローレンに知らせよう。ヤソンが言うと、ガスクはナヴィを抱えて霊廟を出た。
 フリレーテ、もう二度と会わないかもしれない。
 ガスクに抱えられ、その腕にしがみついてナヴィは振り向いた。
 でも、忘れない。憎しみだけじゃない、全ての感情を。
「大丈夫か。痛むか?」
 ふいにガスクに尋ねられ、ナヴィはガスクを見上げて黙ったままその首筋に腕を回した。生きてるのが不思議なぐらいだよ。ナヴィが言うと、ガスクは怒ったように答えた。
「死にそうになったら逃げろって言ったろ。バカ。もう二度と一人にはさせねえぞ」
 ヤソンとイルオマには聞こえないように小声で、ガスクが囁いた。その言葉に頷いて、ナヴィは力の入る方の腕でギュッとガスクの首筋を抱きしめた。

(c)渡辺キリ