「ヤソン!」
「何、あの『第三の男』」
ヤソンの言葉に、アサガは慌てて立ち上がって答えた。
「ヤソンは覚えてないの? ラバス教寺院にいたゲリラの」
「覚えてないなあ。あの時は一度に大勢と会ったからな。みんながこっちをにらんでたのは覚えてるけど」
アサガを木箱にもう一度座らせると、ヤソンは周囲に視線を走らせて、後ろからアサガを抱えて同じように木箱に座った。ちょっと。カアッと赤くなってアサガが立ち上がろうとすると、手に持っていたコップからスープがこぼれて手にかかった。
「少ししかないんだから、こぼすなよ」
その手をつかむと、アサガの小柄な体をがんじがらめに抱きかかえてヤソンは言った。その手にはまだ新しい包帯が巻かれていた。怪我、大丈夫? アサガが尋ねると、ヤソンは笑って答えた。
「痛いよ。でも、どうにかなるだろ」
「ヤソンって…いいや、何でもない」
抱きしめられるとじわりと背中が温かくて、アサガはヤソンにもたれて空を見上げた。少し寒くなったな。そう言って、ヤソンはアサガの腹に腕を回した。
「これから、アストリィに攻め入ることになるのかな」
アサガが空を見上げながら尋ねると、ヤソンはそうだなと低い声で答えた。
「イルオマが出した斥候によると、プティに駐留していた王立軍がアストリィに戻っているそうだ。貴族たちの動向も気になるが…国外に出る貴族も少しずつ増えているって。サムゲナンに続いてダッタンも王立軍が敗走したんじゃな、逃げ出したくなる気持ちも分からなくもないが」
「無責任だよ」
怒りに任せてボソリと言葉を吐き出すと、アサガは手に持ったコップを口につけた。グーッとそれを飲み干したアサガを見て、ヤソンがおかしそうに尋ねた。
「怒った?」
「怒ってるよ。アントニアさまがお可哀想で」
「王が?」
意外そうにヤソンが言うと、アサガはもう片方の手に持っていたパンにかぶりついて、口をもごもご言わせながら答えた。
「僕はずっとエウリルさまのおそばにいたから、アントニアさまと何度かお会いしたことがあるんだ。アントニアさまは父王さまに似て賢くて穏やかな方だよ。エウリルさまのこともあって、僕はアントニアさまを許すことはできないけど…こうなったのは、時勢の流れなんだと思う。もっとそばにいる者たちがしっかりしていたら」
「違うね」
よいしょとアサガを抱き直して、ヤソンはその肩にあごを乗せて呟いた。
「国政を司る王に、全ての責任はあるんだ。王は国を守ろうとしたのかもしれない。でも、実際には国は民であることに気づかず失策をおかしたんだ。そうでなければ、こんなことにはならない。アントニアは人間としては『いい人』なのかもしれないが、王の器じゃなかったのさ」
「…見たこともない人のことを、そこまで悪し様に言わなくてもいいでしょ」
不機嫌そうにアサガが言うと、ヤソンはアサガの頭を抱いて自分の方へ向かせた。
「別に悪口を言ってる訳じゃない。ただの評論だよ」
「僕はできれば、アントニアさまとは戦いたくない」
アサガの言葉に、ヤソンはため息をついた。君はそうかもな。そう言って、ヤソンはアサガの唇にキスをした。ヤソン。アサガが呟くと、ヤソンはアサガを見つめた。
「アサガ、この戦いが終わったら」
アサガの黒い目が真っすぐにヤソンを捉えた。その目をジッと見て、ヤソンは言葉を続けた。
「俺と一緒に、船に乗らないか。俺は国政には参加しない。そういうのには向いてないんだ。この戦いが終わったら、プティのことは仲間に任せて、俺は船に乗って世界中を旅して回ろうと思ってるんだ」
だから、アサガにも一緒に来てほしい。
そう締めくくって、ヤソンは息を飲んで答えを待った。
世界に。
あまりにも突然のことで、アサガは言葉を失ってヤソンの眼差しを見つめ返した。ヤソンの気配は体中に感じるのに、今にも遠い所へ行ってしまうような気がした。ヤソン、僕は。アサガが口を開くと、ヤソンは頷いて言葉を促した。
「アストラウルから出たことないんだよ」
「俺も、君の年にはそうだったけど?」
「世界を旅して回るような大きな船にも、乗ったことないよ」
「それはいい。アサガが驚くような船を見せてやるよ」
ヤソンが笑って言うと、何だか大したことでもないような気分になった。アサガがそんなに大きいの?と尋ねると、ヤソンはびっくりすると思うよと答えた。
「返事は戦いが終わってからでいいよ。お互い、生き延びられるかどうかも分からないもんな」
「そんなこと言わないでよ…僕のこと、受け止めるって言ったろ。死んだら誰が僕の居場所になってくれるんだよ…」
目を伏せて、ヤソンの腕を強くつかんでアサガが言った。ゴメン。そう呟くと、ヤソンはアサガをギュッと抱きしめて黙り込んだ。
ヤソンと一緒に、見たこともない国へ。
それもいいかもしれない。
「戦いが終わったら。だから、それまでに死んだら駄目だよ」
アサガが言うと、ヤソンは答えるかわりにアサガのこめかみに口づけた。しばらく黙って二人で空を眺めると、ほんの一時、戦いの後に思いを馳せてアサガはヤソンの温かな手を握りしめた。
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