ダッタンが陥落したことで、アストリィの緊迫感は一気に高まった。
私軍を持つ貴族たちの中には自ら進んで、そして一方では王宮からの召し出しに応じて軍事力を提供しはじめていた。しかし、一部の貴族にはアストリィを捨て家族を連れて郊外へ逃げ出す者もいた。
アストリィの王立軍駐屯地に詰めて守りを固めていたルイゼンは、アルゼリオでの敗走とダッタン解放の報告を聞いて表情を険しくした。それで、ヴァンクエル伯爵は。ルイゼンが尋ねると、伝令の兵士は敬礼をして答えた。
「本来ならば軍律違反で謹慎となる所ですが、非常時ですので、ハイヴェル大将軍どのの命令でオルスナへ派兵した軍を至急引き戻しアストリィへ集中させることで処罰は保留となりました。しかし、オルスナより派兵の真偽を問う知らせが王の元に届いたとのことでございます」
「そうか。それで、王は何と?」
「現在、憂国の慮にて派兵は事実無根、オルスナとの友好関係は未来永劫続くとの認識をお示しになられました」
「そう…よかった。ヴァンクエル伯爵は自ら陣頭指揮に当たられるおつもりか」
ルイゼンが眉を潜めながら言葉を続けると、伝令はそのように聞いておりますと答えた。伝令がまた王宮へ戻るためにルイゼンの司令室を出ていくと、そこには筆記をする兵士と衛兵、それにルイゼンの三人が残された。
パヴォルム…考えられない。
たとえ王の命とはいえ、自軍をオルスナへ向かわせるなんて。
司令室に置かれた小さな机について、ルイゼンはそこに広げてあった各部隊への伝令書類を眺めた。ダッタンでは平民主体の避難所が作られ、アストリィに面する北部では王立軍と解放軍のにらみ合いが続いている。
緊張は、そう長い間続かないだろう。一つの綻びから一気に布が裂けるように戦いは始まる。
王宮を、国を守りきれるのか。いや、守りきらねばならない。
本来、守るべき国民に刃を向けねばならないとは。
「ルイゼンさま…少しお休みになって下さい。ダッタン陥落以前から、ほとんどお眠りになっておられないではありませんか」
ふいに護衛をしていた兵士が、顔色の悪いルイゼンに声をかけた。部下の兵士にまで気を使わせるなんて、未熟だな。自嘲的に笑って、ルイゼンは大丈夫だと答えて背筋を伸ばした。
今朝、ダッタンにいるローレンから秘密裏に手紙が届いた。
既に解放軍は自分の影響下を離れ、大きく動き出している。
私には戦いを止めることもできず、またその意志もない。
もし戦うことなく王宮を明け渡すのであれば、我々は王族や王立軍に危害を加えるつもりはない。ルイゼン、王が承諾せずとも君は王立軍を止められる立場にある。どうか我々に与してほしい。
手紙にはそう書かれていた。文面に目を通してしばらく黙り込んだ後、燭台の火で手紙を燃やした。
自分には王宮を、王を、自分についてきてくれる王立軍を、そして父を裏切ることはできない。
最後まで。
言葉でそう返事することすらできずに、ただ黙ってルイゼンは小降りのナイフを使者に手渡した。それはルイゼンの紋章の入ったナイフで、王立軍独特の作法でもあった。戦いの意志のある者はナイフを、ない者は麦を差し出す。
戦場でローレンさまやエウリルさまに会ったら、私はあの二人を切れるのか。
ふいにノックの音がしてルイゼンがどうぞと声をかけると、部屋のドアが開いて王宮から早馬で到着した伝令が顔を出した。ヴァンクエル伯爵が馬でこちらに出立されました。伝令が告げると、ルイゼンはそうかと答えて書類に目を落とした。
「ですが、あの…」
「何だ」
言いよどんだ伝令を見て、ルイゼンが促すと、伝令はおずおずと答えた。
「それが、随分思い詰められたご様子で、あれで本当に采配を振れるのかと…」
ルイゼンが眉を寄せると、伝令は出過ぎたことを申し上げましたと敬礼をした。いや。少し考えて、それからルイゼンは伝令に言った。
「久しぶりの実戦だ。それに、ヴァンクエル伯爵はご自身が戦いの場に出られるのは初めてのことになろう。緊張しておられるのだと思う。駐屯地に到着されたら、丁重に出迎えよう」
そう言ってルイゼンが口元に笑みを見せると、伝令はホッとしたようにもう一度敬礼をして部屋を出ていった。兵士たちにも不安は広がっている。統制を取らねば、平民に惨敗することもある。
サムゲナンのように。
「ルイゼンさま、王宮衛兵軍から三部隊が明日には駐屯地に到着すると知らせが届いております」
開いたドアから、駐屯地内の伝令を勤める男がルイゼンに声をかけた。分かった。そう言ってルイゼンが頷くと、伝令は敬礼をしてまた足早に去っていった。
最後の戦いが始まる。
窓の外にチラリと視線を向けると、外は風が強く、木々が揺れて木の葉を散らしていた。緊張感を背中に感じて、ルイゼンはわずかに目を閉じてからまた目を開いて、机の上の書類に視線を落とした。
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