ノーマが言ったことは、案外当たっているのかもしれない。
戦いを回避するために私がやってきたことは、一時しのぎにしかならなかった。圧倒的な武力で制圧することも叶わなかった。
私にもっと力があれば、実績があれば。
もし…ローレンが王宮を出ていなければ。
考えて、アントニアは自嘲的に笑った。そんなことは以前から分かっていたことなのに、今さら何を。ふふっと声を上げて笑うと、アントニアは政務室の椅子に座って机に肘をついた。
たとえアストリィで王立軍が勝利したとしても、燻った火種はふとした拍子に呆気なく再燃するだろう。
それを押さえるだけの力がその時、王宮に残っているだろうか。
「アントニア」
ふいに声をかけられて、アントニアは驚いて顔を上げた。
「フリレーテ、いつの間に…」
部屋に入ってきた気配もなく、机を挟んで目の前に立つフリレーテを見ると、アントニアはそう呟いてから言葉を続けた。
「君も今のうちに王宮を出てプティに戻った方がいい。アストリィとダッタンでにらみ合いが続いてる。今にも戦いは始まろうとしてるんだ。そうなってから王宮を脱出するのは難しいぞ」
机に肘をついたままアントニアが言うと、フリレーテはしばらく黙ったままジッとアントニアを見つめ、それから答えた。
「アントニア、プティで待機していたアリアドネラの私軍…数はそれほど多くはないが、今、アストリィに向かっている」
フリレーテの言葉にアントニアが軽く目を見開くと、フリレーテは政務室の大きな黒檀の机に一歩近づいてそこに手をつき、アントニアの顔を覗き込んだ。
「俺は最後まで、残るつもりだ」
「フリレーテ、なぜ」
アントニアが立ち上がると、フリレーテは机の周りを回ってアントニアの隣に立った。なぜ? 問い返して大きな目でアントニアを見上げると、フリレーテは笑った。
「この国の行く末を見たいからだよ。この国が存続するのか、滅びるのか、この目で確かめたいから」
「違うよ、フリレーテ」
その細い手を握りしめると、アントニアは答えた。
「存続するか、滅びるか、それとも全く別の新しい国が生まれるか、だ」
フリレーテが握られた手に視線を落とすと、アントニアはその手を引いてフリレーテを柔らかく抱きしめた。バカだな、早く逃げればいいものを。小さな声で囁いて、アントニアはフリレーテの目を見つめた。
「そんなにもエウリルが苦しむ姿が見たいのか、ルイカ」
息が止まりそうなほど。
アントニアに抱きしめられたまま、フリレーテは大きな目を見開いた。思わずアントニアの腕をつかんで、フリレーテは黙ったままアントニアを見つめ返した。なぜ、その名を。いや、前から予感はあった。アントニアは全て知っているんじゃないか。知っていて自分をそばに置き続けているんじゃないかと。
オルスナの歴史書を読んでいたアントニアの姿を思い出した。ガタガタと震えてフリレーテが口を開くと、フリレーテの言葉を待たずにアントニアはやっぱりかと言ってフリレーテを抱いたまま王の椅子に腰掛け、その膝にフリレーテを座らせた。
「君のことが歴史書の隅に書いてあったよ。処刑された後、ルイカを名乗る男がオルスナ王宮に現れたと。その姿形の表現が君にあまりにも当てはまるから、初めは似た男がいるもんだと思って興味を引いたんだ」
フリレーテの腰を抱きしめ、その胸に自分のこめかみを押しつけて、アントニアはポツリポツリと呟くように話し続けた。
「そのうちに、ルイカが君だとしか思えなくなった。エウリルに対する憎しみの念も、オルスナを欲しがるのも、ルイカなら当然だ。どうやってオルスナ王宮から逃げ延び、これまでその姿のまま生きてきたのかは知らないが…やっぱり君は悪魔だったのかな」
「俺は」
呆然と視線を彷徨わせ、ふとアントニアに焦点を合わせてフリレーテは呟いた。
「二度、オルスナ三世に殺された。だから、オルスナ王族の血を根絶やしにするためにこの国に生まれ変わってきた。オルスナでは、あの男に手が届かなかった。だから俺は」
ギュッとアントニアの肩をつかんで、フリレーテはその肩に置いた手の上に額を乗せた。
「この国で王となるお前に近づき、オルスナに攻め入らせ、あの男を苦しめてやろうと思った。でもまだほんの子供の頃、俺があまりにも強いルイカの憎しみに飲まれそうになった時、オルスナ三世の王女がこの国に嫁いできた」
喉を震わせ、フリレーテはアントニアの香りを感じながら目を閉じた。
何を話しているんだ、俺は。
誰にも話したことがなかった、俺はあのオルスナの夜に死んでから、ずっと一人きりだったのに。
「俺の愛した女だ」
アントニアがフリレーテの頭を右手で抱くと、フリレーテは腕を回してアントニアの首筋を抱き返した。
「アストラウルの王とオルスナの王女の間に王子が生まれて、俺はどうしてこんなことが起こり得るんだろうと神を恨んだ。もし、俺の中にルイカの記憶がなければ、こんなにも激しくエウリルを憎むこともなかったのにって。エンナがオルスナの王女でなければ、あれは俺の子だったかもしれない。なのに、現実はそうじゃないんだ」
フリレーテの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
小刻みに震えるフリレーテの体を、アントニアは黙って強く抱きしめた。その美しい頬に、額にキスをして、それから子供をあやすように華奢な背中をなでさすった。フリレーテ。アントニアの低い声に呼ばれて、フリレーテはむしゃぶりつくようにアントニアの唇を吸った。それから何度も繰り返しキスをして、フリレーテは夢中でアントニアを求めた。
まるでこの世の闇から抜け出そうともがく、小さな弱々しい光のように。
「フリレーテ、君にオルスナをあげられないかもしれない。ごめん」
手を回してフリレーテの服を脱がせながら、ふいにアントニアが言った。その言葉を遮るように、フリレーテはアントニアに口づけて舌を伸ばした。しばらく夢中で互いの唇を貪りあい、アントニアの手に服をはぎ取られながらフリレーテは熱い息を吐き出した。
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