アストラウル戦記

 このまま、時が止まればいい。
 自分の胸に頬を寄せるアントニアの髪に触れて、フリレーテは高い天井に描かれた宗教画を見つめた。神よ、これまであなたに背き続けてきたけれど、愚かな俺を許してくれるなら、このまま時を止めてほしい。
 アントニアの体はまだ熱っぽく、わずかに汗をかいていた。何度も何度も柔らかくアントニアの髪をなでると、フリレーテは黙ったまま目を閉じた。
「フリレーテ」
 ふいにアントニアが囁いた。フリレーテが目を開くと、アントニアはフリレーテの体の上に乗ったまま手を伸ばして、フリレーテの顔がよく見えるように彼の前髪をかき上げた。そのままふっくらと柔らかそうな唇にキスをして、口元に笑みを浮かべたままフリレーテを見つめる。
「いつか、君の憎しみが消えてなくなればいいけど」
 そう囁いて、またフリレーテに口づけてからアントニアは身を起こした。アントニア? フリレーテがソファの上で起き上がると、アントニアは裸のままソファから降りてフリレーテの頬を手で優しく包んだ。
「私には結局、君に何をしてあげることもできなかった。一国の王たる私が、君の一番望むものすら与えることもできない。王がこんなに腑甲斐ない男では、君もアストラウルに生まれた甲斐がなかったろう」
 そう言ってフリレーテの髪をなでると、アントニアは政務室の机の脇を回って、床に落ちていた衣服を拾い上げた。どちらが私のものだか分からないな。アントニアが言うと、フリレーテは立ち上がって、アントニアと同じように裸のままそこに近づいた。
「大きさが違うんだから、分かるだろ」
「しかし、こんなにあるのでは…」
「これを履いて、これは上から着るんだ。いつも侍女まかせで着替えさせられてるから、分からないんだよ」
 怒ったように言って、フリレーテはアントニアに次々と服を渡した。
「本当に、何もできない男だな」
 目を伏せてそう言うと、フリレーテは手早く自分の服を身につけてから、アントニアが手に持っていた服を取り上げた。すまない。申し訳なさそうに言ったアントニアをチラリと見て、フリレーテはアントニアの着替えを手伝った。
「これじゃ、王宮から運よく逃げられたとしても、生きていけないな。服も一人で着られないんじゃ…」
「私はもう、王宮を出ることはないよ」
 アントニアの前に跪いてフリレーテがブツブツと文句を言うと、アントニアはフリレーテの髪に触れながら答えた。
 一瞬、フリレーテの手が止まった。
 それは本当にわずかな間で、フリレーテが続けてアントニアに服を着せ、腰に飾りのついた巻きベルトを結びつけてやると、アントニアはフリレーテの髪に身を屈めて口づけてから言葉を続けた。
「王として責任を取らねばなるまい。そうしなければ、この戦いは治まることはないだろう。これから私はハイヴェル卿や残った大臣たちと共に、王宮の王立軍司令室に詰めねばならない。だからフリレーテ、君は私がここを出ていったらすぐに王宮から逃げなさい。わざわざ王宮に残って、志半ばで私と共に死んでも仕方がないだろう」
 アントニアの声は落ち着いていて、いつものように穏やかだった。
 視線を伏せたまま立ち上がると、フリレーテはアントニアの首筋に抱きついて強く力を込めた。最後までバカな男。ここを出て、一生お前を思いながら生きていけと言うつもりか。黙ったままアントニアを抱きしめると、フリレーテは涙を堪えながら首を横に振った。
「フリレーテ」
「俺の本当の名は、レタ。フリレーテは養子に入った時に変えた名だ」
 だから、本当の名を呼んでくれ。
 フリレーテが言うと、アントニアはフリレーテの耳元でレタと甘く囁いた。
 アントニア、俺はもうお前のそばから離れない。
「今夜、もう一度だけ…霊廟で」
 フリレーテがそう言ってキスをすると、アントニアはそのキスに応えた。今夜がもし来るのなら。アントニアがフリレーテを見つめて答えると、フリレーテは頷いてもう一度アントニアに口づけた。

(c)渡辺キリ