アストラウル戦記

「オルスナ語?」
 ナヴィが尋ね返すと、ベッドのそばで器に入ったスープをかき混ぜていたガスクがチラリとナヴィを見た。
「お母さまやユリアネとは、たまにオルスナ語を使って話していたから、話せることは話せるけど。おじいさまに会う時はオルスナ語だから、いつでも話せるようにって」
 でも、何で? ナヴィがもう一度尋ね返すと、ガスクはスープを匙ですくって差し出しながら答えた。
「うん、まあ…傷がよくなったら、俺とオルスナへ旅に行かないか」
「オルスナ…え、ええ?」
 驚いてナヴィが匙を前に口を開くと、ガスクは匙をナヴィの口の中に押し込んだ。冷めたスープを次々とナヴィの口に運びながら、ガスクは話した。
「戦いも終わったし、俺は学がねえから政治のことは分かんねえ。スーバルンの権利がどうとかグウィナンが言って今日も会議に出てるが、それならいっそグウィナンに後を任せて、俺は旅に出ようと思うんだ」
 ゲリラになる前は、ずっとそうして暮らしてたからな。
 そう付け加えて、ガスクはナヴィの口の周りについたスープを布で拭き取った。
「でも、どうしてオルスナへ?」
「嫌か。オルスナじゃなくてもいいけど、言葉が分かるなら手っ取り早いだろ」
 ガスクが拗ねたように脇に置いてあったカゴからパンを取ると、ナヴィは背に挟んでいたクッションにもたれてガスクを見上げた。その表情は何だか嬉しそうで、ガスクが何だよと尋ねると、ナヴィはううんと首を振ってから答えた。
「行きたいな、オルスナ。ずっと子供の頃に行ったきりだけど、とてもいい所だった。ガスクと一緒に行けたら楽しいだろうな」
「だろ。まあ、怪我が治って、カジュインに会いにグステ行ってそれからだけどな」
 ガスクがパンを千切って差し出すと、ナヴィはそれをくわえてまだまだ先だねとモゴモゴ答えた。それでも、ずっと先の約束ができることが嬉しかった。しばらく黙って二人で食事を続けていると、ふいにバタバタと足音がして、部屋にアサガが飛び込んできた。
「エウリルさま! ローレンさまが…」
 ナヴィが驚いて思わずパンを飲み込んだ。ガスクが振り返ると、アサガは二人を見てとにかく早く来て下さいと声を張り上げた。
 歩けるとナヴィが言うのを無理に抱きかかえて、ガスクがアサガについて外に出ると、馬に乗ったローレンがナヴィに気づいて手を振った。イルオマとヤソンもいて、ナヴィがどうしたのかとローレンを見上げると、ローレンは苦笑した。
「大げさだな。二度と会えない訳じゃないんだから」
「だって、ローレンさま…僕は悔しいです」
 真っ赤な顔で、アサガがローレンを見上げた。
「ここはローレンさまが生まれ育った場所なのに。せっかく戻ってきたのに、また出ていかなきゃいけないなんて」
「何があったんだ」
 ガスクが尋ねると、ヤソンが朝の政務室で話したことを二人にかいつまんで聞かせた。ガスクが本当なのかとローレンに尋ねると、ローレンはガスクとナヴィを見下ろして答えた。
「いつまでもグズグズしていたら、決心が鈍るよ。私はこれからサムゲナンに行って町の復興に力を尽くそうと思ってる。それからエウリル、お前が言ったような学校を作るよ」
「本当に? 本当にそうしてくれるの?」
 ナヴィが頬を赤くして尋ねると、ローレンは頷いた。
「エウリル、お前もいつかサムゲナンにおいで。そして皆に、お前の手でお前が知る多くのことを教えてあげればいい」
「はい」
 ローレンの言葉に力強く答えたナヴィの円らかな目を見つめると、ローレンは目を細めた。ありがとう、ローレン。同じように笑みを浮かべると、ナヴィはローレンを見上げた。
「その頃にはジョーイやマレーナを呼び寄せているだろうから。マレーナはきっと君に会いたがってるよ」
 にこやかな表情でローレンが言うと、ナヴィは僕もマレーナに会いたいよと答えた。止めないんですか。アサガが声を荒げると、ナヴィは答えた。
「だって、また会えるもの」
「アサガ、ありがとう。でも、私は自分でここを出ていくんだよ」
 ローレンが言うと、アサガは涙ぐんだ。本当にまたすぐに会えますか。アサガが尋ねると、ローレンは頷いた。
「ローレン、それなら俺の仲間を一人連れてってくれ。早馬は行かせたが、アストリィのその後の様子はまだ分からないままだろう。スーバルン人が一緒なら護衛にもなるしな」
 ガスクがローレンを見上げて言って、それから後ろにいたイルオマにナッツ=マーラを呼んでくれと頼んだ。ダメですよ。呆れたように言ったイルオマに、ガスクが怪訝そうな表情を返すと、イルオマは両手を腰に当てて小首を傾げながら息をついた。
「あんな色ボケ役に立たないって、グウィナンが怒り狂っちゃって今朝も大変だったんですから」
「色ボケ?」
 ナヴィがポカンとして尋ねると、イルオマは頷いた。横で聞いていたヤソンとローレンが笑いを堪えて顔を背けた。ナヴィがアサガを見ると、アサガは微妙な表情のまま答えた。
「ルイゼンさまですよ。捕虜として身柄を預かってるんですが、重傷なのでアストリィの避難所に作られた救護室にずっとおられるんです。そこにナッツ=マーラが押し掛けてて」
「おい、色ボケって」
 焦ったようにガスクが尋ねると、自分もボケちゃってるから気づかなかったんでしょうとアサガが意地悪そうに答えた。首まで真っ赤になったガスクとナヴィを見てため息をつくと、アサガはイルオマに言った。
「イルオマも、グステにユリアネを迎えにいくんだろ。早く行かないと、怒ると死ぬほど恐いよ、姉さんは。エウリルさまがお怪我をされたことは、まだ知らないだろうし」
 知ってたら飛んでくるだろうし。アサガが言うと、イルオマは青くなってとにかく私が行きますよと言い添えてローレンを見上げた。
「だから、出立は明日まで待って下さい。私だって準備があるんです」
「分かったよ。でも、私はアストリィの避難所で待ってるよ。王宮は落ち着かない」
「僕もだよ。元は自分の家なのにね」
 ローレンの言葉を聞いてナヴィが言うと、その場にいた男たちが声を上げて笑った。みんな、呑気なんだから。唇を尖らせてアサガが呟くと、その頭をくしゃりとなでてヤソンがまあまあ機嫌直せよと小声で囁いた。

(c)渡辺キリ