玻璃の器
 

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 時は平安。
 今をときめく三条大納言家の広大な庭には、美しい紅白梅のつらなりが我が世の春よと咲き誇っている。
 その梅香芳しく薫りたつめでたさの中、ざわめく女房のささやき声と安産祈祷を続ける坊主の読経の間で、けたたましくも健やかな産声が上がった。
 権大納言、藤原兼長の正室(せいしつ)、楽子が生んだ初めての男の子であった。乳白色のきめこまやかな肌に、紅梅にも負けじと美しく赤みのさす愛らしい頬。そして、大きな黒い瞳とふっくらと赤い唇を持つ玉のように見事な赤子の誕生は、またたく間に京中へと伝わり、主上(おかみ)からの賜り物をはじめ、報を聞いた人々からも我も我もと言わんばかりに祝いの品々が届いた。
 これまで権大納言は妾腹との間に子をなしたものの、すべて女の子ばかり。
 そんな中、正室との間に初めて生まれた男の子は、美貌の内親王と讃えられた祖母ゆずりの愛らしさで、立派な長男の誕生に権大納言兼長の喜びようは限りを知れず、また宮中でも、今主上の元へと嫁いだ兼長の妹姫、絢子…藤壺女御(にょうご)が生んだ惟彰親王(しんのう)誕生以来の騒ぎとなった。

 それも今は昔。
 目を閉じれば、つい昨日のことと感じられるというのに…。

「そんな飾り、いらないったら!」
 御簾(みす)を蹴破る勢いで簀子(すのこ)に飛び出した固まりが、そのまま庭に飛び下りてから振り向いた。
 角髪(みずら)に結ったばかりの、柔らかで艶やかな髪に差した花飾りをうるさそうに取り上げると、それを土の上にポイと放って、単衣(ひとえ)姿に袴もつけず、その男子は裸足のまま、まるで天女が空をかけるように軽やかに駆け出した。
 お待ち下さりませ! まだ揺れている御簾を上げ、そこから白髪まじりの年嵩の女房(にょうぼう)が後を追うように簀子へ出てくる。
「馨君! これ、若葉。はよう追って若君をふんじばり…いやいや、ここにお連れ申せ」
 女房たちに混ざって若君のお召しかえを手伝っていた女童(めのわらわ)の若葉は、歯を飛ばさんばかりに怒鳴る祖母を見上げて、明るい声を上げて笑った。
「ばばさま、年だから若君さまについていけないんでしょう。だから、姫君さま付きの女房にしてもらえって母さまも何度も…」
「若君がお生まれあそばされた時から、このばばの身は若君付きと決まっておる! それに、このお屋敷に限って言えば、姫君とて大人しく捕まえ…いやいや、双六(すごろく)や人形遊びをなどと言っておられぬのは同じこと。余計な口叩いてないで、はよう行って首にヒモかけてお連れ申し上げるのじゃ!」
「はいはい。全く世話のかかる若君さまだこと」
 馨君より三歳年上の若葉は、童姿ながらよく姉ぶってこんな風に話すクセがあった。袴を小さな両手でたくし上げ、草履を履いては足が遅れるとそのまま裸足で庭へ飛び下りると、若君さまーと高い声を上げて後を追いかける。
 時の権力者とも言える権大納言家の屋敷に仕え、しかも若君付きの女房ともなれば、後はオロオロと部屋の中を泳ぎ回るおっとりとした見目麗しい女房ばかり。
「まったく、若葉以外は誰一人として使えぬとは。これ、みなもう時がござりませぬぞ。北の方(きたのかた)さまの迎えの女房が来るまでに仕度を済ませねば」
「枯竹さま」
「呉竹です!」
「呉竹さま、何やら表が騒がしいようですわ」
 そばにいた少し年嵩の女房が言うと、他の女房もざわつき始めた。ひょっとしてもうご到着あそばされたのかしら。そんな声が上がると、興味本位で御簾から顔を出す女房まで現れる。東門から聞こえる従者や女房たちの声に耳を傾けたり、まるで蜂の巣をつついたような騒動になっていた。
 いつもならばもう、若葉が若君をふんじばって…いやいや、若君をお連れ申し上げてもよい頃なのに。めったなことでは動じない呉竹も、今日だけは心もとない様子で、浮き足立った女房たちを叱りつけることも忘れている。
 なんと今日は、主上一番のお気に入りである女御絢子の里下がりの日なのである。
 この家の主、権大納言藤原兼長を実兄に持ち、また父内大臣亡き後に現在の後見人としているため、身ごもった絢子が産み月を控えて体調を崩し、里下がりする先にこの屋敷を選んだのはごく自然なことであった。
 そして幸か不幸か…絢子の二人の皇子もお忍びで遊びに来ていたのである。

 
(c)渡辺キリ