玻璃の器
 
 途中、木に登って若葉をやり過ごした馨君は、手慣れたようにするすると木から下りて庭を見回した。
 一昨年、袴着を終えた馨君はやんちゃ盛りの五歳。未だ袴も角髪も窮屈で嫌いだった。今日から叔母君にあたる絢子が来ることは知っていて、少しは興味もあったけれど、そのために窮屈な思いをするのはまっぴらごめんだった。
 バタバタと動き回る女房たちの目を盗んで簀子の下に潜り込み、這うように進んでいた馨君は、ふいに聞き慣れた声に気づいてひょいと顔を出した。
「小霧!」
「まあ、若君…」
 馨君と同じほどの年頃の女童が、女房に混じって忙しそうに立ち居ふるまっていたが、簀子の下から這い出してきた馨君を見下ろして目を丸くした。
「女房も連れずに、一人で姫さまの所へおいでになってはいけませんわ」
 まだ舌足らずなおっとりとした幼い声で小霧が言うと、馨君はパンパンと単衣についた砂を払って尋ねた。
「逃げてきたんだ。姫は?」
「芳姫さまは奥でおやすみです」
「お願い、呼んで。一生のお願い」
 馨君が手を合わせると、小霧は呆れたように、若君が女童にお願いなどと言うものではありませんのよと呟きながら御簾の奥へ消えていった。他の女房に見つからないようにまた簀子の下へ隠れていると、ふいに小さな汗衫(かざみ)姿がひらりと舞って、その後を追うように小霧がよいしょと高い簀子から階(きざはし)を降りてきた。
「あら兄上。いい格好ですこと」
 三角座りで待っていた馨君が立ち上がると、白い袿を頭上に担いでいた少女が、その下から大きな黒い目で馨君を見て笑った。愛らしい声もその顔も、雛人形よりも可愛いと噂に高い馨君にどことなく似ていた。
「兄上、袴はどうなさったの?」
 芳姫が馨君の隣にしゃがみ込むと、馨君はひそひそ声で答えた。
「履く前に逃げてきた」
「さっき、叔母君がご到着あそばしたみたいよ。東門ですごい騒ぎだったの、知らないの? そんな格好で走り回ってたら、炊(かし)きの子と間違われるわよ」
「うるさいなあ…お前、見に行くのか?」
「何を?」
「藤壺さまだよ」
 馨君がもどかしげに言うと、芳姫は小さな肩を竦めた。
「行っても几帳(きちょう)の中よ。叔母君とはごたいめーんできても、惟彰さまはちゃんと見られるかどうか分からないもん。どうせ母さまがジッとしてなさいって言うに決まってるし」
「これあきら?」
 きょとんとして馨君が尋ねると、芳姫は何にも知らないのねえと息をついた。
「東宮さまよ。今日、内緒で一緒においでなのよ」
「お前、そんなの見たいの」
「そんなのってねえ、東宮さまよ。次の主上よ」
 呆れたように答えると、芳姫はうーんと考え込むように呟いて、それから目を輝かせて馨君の手をつかんだ。
「そうだ! 兄上、ちょっと変わってくれない? 兄上のふりをすれば、堂々と東宮さまを見られるじゃない」
「はあ?」
 馨君が驚いて思わず声を上げると、芳姫はしいっと人さし指を唇に当ててからまた声を潜めた。
「ね、そうなさいませ。叔母君は赤子をお生みになられるまでここにいらっしゃるから、いつでもお会いできるけど、東宮さまは明日帰っちゃうって言うんですもの」
「嫌だよ。お前の方がじっとしとかなきゃいけないもん。きゅうくつだよ」
「それなら、袿かぶって庭でもお散歩なさいませ。ね、アタシはいなくても構わないけど、兄上がいないとまた父上がカンカンになって探しまわるわよ」
 ニヤリと笑った芳姫を見ると、眉をひそめて馨君はふうんと息をついた。
 確かにそうかもしれない。
 絢子の退出が決まってから、これまでのびのびすぎるほどのびのびと育ててきた反動か、父兼長の馨君へのシツケは締め付けが厳しいのだ。
 
(c)渡辺キリ