玻璃の器
 
 内裏(だいり)から伴をしてきた女房たちは、みなそれぞれにきらびやかな衣装を身にまとい、車宿り(くるまやどり)から母屋(もや)に入るまで長い行列を作っていた。権大納言家の女房たちも、普段は我こそは今を時めく権大納言家に仕える女房と誇りも高いが、さすがに内裏から来た女房の華やかさには気後れがする。
 絢子には、これから桜とツツジが美しく日当たりの良い東の対屋(たいのや)が充てられ、権大納言家の北の方、楽子の選りすぐりの女房たちが絢子を先導した。牛車(ぎっしゃ)が到着してから絢子が室内の上座につくまで、実に一刻ほどの時間を要した。
 すでに大きく張り出した腹をかばいながら脇息(きょうそく)にもたれると、ふーっと長い息を吐いて絢子は笑った。
「大仰ねえ。だから伴の女房なんていらないって言ったのに。主上が心配だっておっしゃるもんだから。内裏から三条邸までなんて目と鼻の先よ?」
「藤壺さま、そうはおっしゃられても、もう主上の東宮時代のようにお忍びで内裏を抜け出しなさるなどという訳にはいきませぬぞ」
 絢子が無事に権大納言家に着いたことを、また内裏に戻って知らせる役目を任された王命婦が、そばに控えながらたしなめるように囁いた。もう、窮屈ね。そう言って絢子が肩をすくめると、ふいに先触れの女房が御簾越しに二人に声をかけた。
「春宮(はるのみや)さま、兼長さまがお見えにございます」
「どうぞ。誰か、円座(わろうだ)を整えて差し上げて」
 張りのあるよく通る声で絢子が言うと、御簾が持ち上がって、スラリとした姿態の少年が入ってきた。母上、おてんばが過ぎますよ。まだ七歳になったばかりだというのに大人びた口調で言うと、主上に似た理知的な目で呆れたように少年は几帳の奥の母親に声をかけた。
「嫌みな子ね。言い方が主上そっくり」
「確かに父上と親子だということが証明できて、母上にとってはいいでしょう?」
 女房がしつらえた円座に、子供とは思えないほど典雅な振る舞いで惟彰が座ると、扇を口元に当てて絢子は舌打ちした。主上はともかくホントにアタシの子なのかしら、この子。主上が一人で生んだんじゃないの? そう思うほど、絢子に似た鮮やかな二重で少し華やかな顔立ちであることを除けば、惟彰は主上のミニチュアといった雰囲気だった。
「おお、藤壺さま。お疲れになったでしょう。今、白湯や菓子などを持たせましょうな」
 続いて兼長も入ってきて、女房に手を打ち鳴らしてから惟彰の下座側にどっかりと座り込んだ。その様子はまるでセイウチかアザラシで、絢子は自分以上にせり出した兄の腹を見て扇の内で笑いを堪えた。権大納言家の女房が、高杯(たかつき)に盛った団喜(だんぎ)や梅の枝に模した唐菓子と白湯を捧げ、サラサラと衣擦れの音をたてながら次々と入って来る。
「兄上さまこそ、お変わりなく。北の方と子供たちはお元気?」
「おかげさまで息災です。北も後で挨拶に来ると言っておりました。どうも女子は準備が長くて…」
「楽子さまも、お変わりないようですわね」
 内裏へ入内(じゅだい)する前、兼長の北の方と絢子とは三条邸で何度か会ったことがあった。けれど惟彰の誕生後に生まれたこの家の長男とは当然、まだ顔を合わせておらず、内裏どころか都中に響く噂を聞いて密かに対面を楽しみにしていた。白梅よりも白い肌に、紅梅よりも赤い頬を持つ愛らしい男の子。父親似じゃないことを祈るばかりね…考えながら扇をパチンと鳴らすと、王命婦以外のそばにいた女房が、流れる水のようにまたサラサラと衣擦れの音をたてながら下がって行った。
「馨君とかおっしゃったかしら、兄上さまの一の君は」
「は…そう呼ばれておりまする。どうも梅の芳しく馨るような匂いたつ愛らしさということのようで…ありがたくも勿体ないことにござります」
「後で寄越してちょうだいね。私の方から行こうかしら…あら、そう言えば水良は? 春宮さま、弟宮はどうしたの」
 ふいに気づいて、絢子が怪訝そうに尋ねた。惟彰は笑いを堪えておかしそうに口を閉ざしている。それを見て困ったように懐紙(ふところがみ)で汗を拭うと、兼長はふうと息をついてから答えた。
「それが、牛車から降りた途端に鳥を追いかけて庭へ…今、女房や従者たちに探させておる所で」
「まあ」
 驚いて目を開くと、絢子は扇を開いてコロコロと鈴が鳴るように笑った。庭は広うございますから、見つかるまで今しばらくはかかりましょうなあ。そう言ってまた汗を拭いた兼長を見ると、絢子はふいに脇息から身を起こして惟彰に声をかけた。
「春宮さま、あなたちょっと行って水良を探してきてちょうだい。女房を一人連れてね」
「東宮をアゴで使ってまかり通るのは、母上だけですよ」
 呆れたように言うと、惟彰は立ち上がって兼長に頭を下げた。伯父上、また後ほど。そう言ってにこやかに目を細めると、廂(ひさし)へ出て惟彰は誰か!と張りのある声で女房を呼んだ。
「…いい主上になられましょうな、惟彰さまは」
 自分の甥の少年ながらも立派な立ち姿に、感心したように兼長は呟いた。それが問題なのよ。そう言って息をつくと、扇を玩びながら絢子はまた脇息にもたれた。
「…と、仰られますと?」
 声を潜めて兼長が尋ねた。よくない噂を耳にしたのよ。そう答えてため息をつくと、絢子はパチリと扇を鳴らした。
 
(c)渡辺キリ